論考:アブダクティブ・イシュー 〜 Why to Sayを問う構想力 〜

これからの広告における想像力のあり方について論考をまとめました。つねづねぼくはクリエイティビティとは、すなわちアブダクティビティであると考えてきました。クリエイティブという概念はもっと抜本的に変わるべきです。もうひとつの動機として、マーケティング研究者の栗木契さんが2003年にかかれた『リフレクティブ・フロー』を読み、その発展を意識してかいてます。栗木さんの議論はたいへん混みあってるので本文ではやむなく省いてしまいましたが、その考えをふまえていることを整理して改めてテキストにする必要を感じています。

アブダクティブ・イシュー 〜 Why to Sayを問う構想力 〜

本論の目的は、広告会社におけるクリエイティビティの可能性を引き出すことで、不完全な時代を補完するのではなく、不完全なままにどう生きるか主体的に考える想像力を誕生させることにある。いま日本人はみな、先行きの見えない暗闇をともに歩むかのような感覚に覆われている。かつての常識や成功体験は通用しない現在、私たちがすべきことは過去の分析でも現状の俯瞰でもなく、未来を見通すパースペクティブであり、散らばっていった問題群をあらたに再設定していく構想力にある。このような能力を職能的に備えている広告人のポテンシャルを本論で明らかにしたいと思う。


1:不完全な時代
生活者主導プラットフォームの台頭
いま広告業界は大きな転換期にある。消費者への関心をベースにした意識データだけでは課題を発見することが難しくなり、生活者自身も気付かない無意識をベースにした行動データによるインサイトが求められるようになった。しかし行動データは大規模顧客接点を持つ事業者(ポータルサイトなど)もしくは自社で接点を持つクライアント企業そのものが有しており、広告会社が誇っていた情報の優位性は著しく低下してきた。
一方で生活者は、企業やマスコミによるメッセージを受容するだけでなく、友人同士でつながりあうコミュニケーション行為にこそ多くの時間を割くようになってきた。この現象を社会学者の北田暁大は「繋がりの社会性」と名付けた。*1 さらに俯瞰すると梅田望夫がいう「総表現社会」、博報堂による「生活者主導社会」もこの変化と意を同じくしている。
そして2011年3月11日、東日本大震災が日本を襲った。犠牲者の数は戦後最大級の災害として深く大きな傷跡を残した。この事態にコミュニケーション産業のなかで最も早急に手を打ったのはグーグルだった。グーグルは震災によって行方不明になった人たちの安否を登録する「パーソンファインダー」という連絡サイトを、震災が発生してわずか2時間後に立ちあげた。同じコミュニケーションを生業にする者としてその対応のスピードには舌を巻き、いかにグーグルが生活者により近い接点を持っているか実感するケースだった。他にも楽天やグリーなど多くのポータルサイトが、早急にウェブ決済システムを使って震災義援金を募る動きをみせた。
現在、行動データを最も広範囲かつ効率的に取得し、生活者が情報に費やす時間を奪い、コミュニケーションで社会に貢献しているのはテクノロジー開発で成功している新興企業ばかりだ。どれもこれも広告会社にノウハウがあると自負してきた領域ばかりだった。


大震災がもたらした時代精神
311の大震災は私たちの思考と行動に大きな変化をもたらした。コンピューター科学者の坂村健は、人々が得る情報はいつも正しいわけではないという不安に向きあいながら、そのなかでもっともらしい判断をしながらも、判断した結果についてすでにあきらめてしまっている現代人の心理を「不完全な時代」と形容した。*2 これまでの社会が対価さえ払えば完璧な保障をしてくれるギャランティ(性能保障)型システムで動いたとすれば、これからはユーザーも含めて関係者みんなで問題がないように最大限の努力をして支えあうベストエフォート(最大努力)型システムで社会は機能せざるをえなくなるのだ。
絶対安全神話が崩壊したいま、企業が提供する商品や価値はだんだんベストエフォート型システムに切り替わっていくだろう。その代表格はソーシャルメディアだ。ソーシャルメディアはサービスを開始してから当初はシステム不備があったとしても、事業者は試用品であるβ版として公開し、むしろユーザーから改善策を募ることでパワーアップしていく。いうまでもなくこういった環境を整備しているのもまたIT系の新興企業たちだ。
情報の優位性の凋落。奇妙な緊張感につつまれた消費の混乱。生活者ニーズにひたすら応え続けることを唯一の善としてきたマーケティング進歩史観も早晩に立ちゆかなくなるだろう。広告会社が次の一手をどう指すか迷っている間、コミュニケーションプラットフォーム事業者は八面六臂に活躍している。世の中の空気をつくる仕事と呼ばれた広告会社がいますべきことはいったいどこにあるのだろうか。


クリエイティビティの構造転換
社会設計におけるギャランティ型からベストエフォート型への移行は、広告にまつわるクリエイティビティの変化とも鏡のように照応している。どういうことか。
20世紀で最も偉大な広告人と評されるウィリアム・バーンバックは、1950年代に“クリエイティブレボリューション”と呼ばれる潮流をつくった。広告制作のコンセプト開発において、コピーライターとアートディレクターの二人が協業して生みだす手法を一般化させた。以来、広告クリエイティブは少人数でつくりあげる送り手の創造力となった。
しかしながら一方で近年の世界的な言説のトレンドをみると、創造性は作者よりも環境に帰属するようになったと指摘する論者が増えている。たとえば法学者のジョナサン・ジットレインは、クリエイティビティが個人の内面や精神から生まれるものだとすれば、匿名の多人数によって創造的な活動が勃発している現象をジェネレイティビティ(生成力)と名付けて説明している。*3 種々雑多な人々が偶有的にコラボレーションすることでだれも予想できないようなアウトプットが生まれるのがジェネレイティビティだとすれば、それはすなわちソーシャルメディアが実現したことに他ならないだろう。
送り手=広告会社がつくる創造力を受容する消費者像から、受け手がつくる生成力を促進する生活者像へ。世界中で拡大の一途を歩んでいるこの変化にいち早く対応したのはやはりIT新興企業だった。広告会社が乗り遅れていることはまず認めざるをえない。
グーグルやフェイスブックは企業と生活者のあいだのコミュニケーションを活発にした。ならば企業と生活者のあいだに立ち、クリエイティビティという価値を提供してきた広告会社もまた、彼らとはまったく別のやり方でその進化系を示す時期がきたのではないか。


2:アブダクティブ・イシュー
哲学的議題のコンテンツ化
これまで例にあげたIT新興企業のビジネスは、どれも人と人をつなげることに趣をおいたコミュニケーション志向型である。とすれば広告会社のビジネスは、人々を楽しませるコンテンツ志向型にこそ真骨頂があるのではないか。そこで本論ではクリエイティビティの可能性を探る方向として、まずコンテンツ界隈に焦点をおいて議論を進めてみたい。
そのうえで参考にしたいのは、哲学者のマイケル・サンデルハーバード大学で行っている対話式の授業とそのコンテンツ群だ。この授業をもとに書かれた『これから「正義」の話をしよう』は哲学書としては異例の60万部(2010年度時点)を売り上げるベストセラーとなり、さらに授業の模様はNHKで「ハーバード白熱教室」と題して全国放送された。
日本の大学で行われる一般的な授業は、講師が一方的に生徒にむかって熱弁をふるい、生徒たちは演説を聴きながら黒板に書かれたことを丸写しでメモにするものだ。比べてサンデルの授業はなにかの考え方を提供するというより、サンデルがある問題を設定し、その問題をきっかけにして聴講者たちが議論を交わしあうというコミュニケーションに主眼がある。それは教師と生徒という関係より、司会と参加者という関係に近いだろう。
司会であるサンデルはディスカッションでなにか結論を導くわけではない。参加者たちも答えを探し当てることを目的にしていない。たとえば「1人を殺せば5人が助かるとした時、あなたはその1人を殺すべきか?」といった軽々に答えようのない難問ばかりだ。*4
サンデルは身近なテーマを題材に、人々に“なぜ”を問いかけ続ける。さらに呼応する参加者がまた新しい“なぜ”を生みだし、問いの繰り返しは次第に大きなうねりと化していく。そしてサンデルたちの議論をしたためた本やテレビを見ることによって、数百万人規模の人々が難問を考えることそのものを楽しんでいるのだ。
震災以降、生活者はわかりやすい話を軽々に受け入れるのでは飽き足らず、ますますむずかしい問題をひとりひとりで考えはじめている。ならば広告会社は、意識的な生活者に対して、サンデルのような哲学的アジェンダセットの手法をヒントにした新しい価値を提供できるのではと本論は着目している。


アブダクティブ・イシューとは
基本的な広告コミュニケーションは、企業が伝えたい意図を表現し、メッセージを生活者へ届けるというフローによって成立している。だが昨今の生活者はインターネットやソーシャルメディアの活用によって能動性が高まり、さらに震災によってエシカルな購買行動(たとえば復興消費)もあらわれてきた。
生活者の意識的な行動力に着目しながら、企業と生活者を同じテーブルにのせて一体化させていく表現のあり方を、本論ではサンデルが行ったアジェンダセットの方法を参照した「アブダクティブ・イシュー」(表1)というアイデアを提案したい。
アブダクティブ・イシューとは、企業や商品が伝えたい機能的価値を、意識的生活者に伝わるように仮説推論的(アブダクティブ)に視点・論点(イシュー)へと変換していくコミュニケーションの方法論だ。通常の情報伝達型フローではメッセージを豊かに表現することで、意図を明確に伝えようとするが、意図はそのままに伝わるとは限らない。比べてアブダクティブ・イシューは意図にこだわらず、人々にメッセージを受け入れて楽しんでもらうことにまず主眼をおくため、商品性とはまったく別の視点を導入している。
アブダクティブ・イシューは通常のマーティングの常識とはかけ離れた概念である。マーケティングは商品特性と生活者ニーズを掛けあわせて、商品の課題を発見し、課題に応えることで販売を伸ばしていく運動だ。対してアブダクティブ・イシューでは、商品特性そのものを分析するのではなく、むしろ商品を踏み台にした社会的視点を生みだすことで、商品に内在していなかった新しい価値を与えていく運動だといえる。

表1:情報伝達型フロー(左図)と アブダクティブ・イシュー(右図)の違い


事例:AMERICAN ROMキャンペーン
具体的な事例として、ルーマニアのROMチョコレートが仕掛けたAMERICAN ROMキャンペーンで考えてみよう。ROMチョコレートはルーマニアの国旗をあしらったパッケージで長らく親しまれてきた商品だが、肝心の若年層の購買が落ちていた。そこでこのキャンペーンは商品のシンボルであるルーマニアの国旗を、いきなりアメリカの星条旗へ変更した。ルーマニアの国威を傷つける行為だと反対運動が巻きおこり、世論は大きく賑わった。
アブダクティブ・イシューの文脈でこのキャンペーンを分析するとこうだ。まずプランナーは、商品特性から社会的な関心を引き起こしやすいイシューへと変換するために、国民の関心を最も集めやすい国旗を模したパッケージに着目した。このパッケージから「ROMのパッケージには国民の精神性そのものが現れている」という仮説を働かせた結果、アメリカ国旗に変えることで「ナショナリズムの危機」というイシューを産み出した。機能的価値としてはよくあるチョコレートバーでしかないROMだったが、パッケージを変えるだけで一気に社会的価値を持つようになったのである。
イシューを設定した後は、その争点のうえで人々の意見が交わされるように整備しなければならない。このキャンペーンではクライアント及び広告会社を連ねた“作戦司令室”と名付けたチームを結成し、国民から投げかけてくる意見や主張に耳を傾ける体制をつくった。作戦司令室ではテーマから逸脱しすぎないように、意見の交換をたえずチェックし続けた。
そして国民がアメリカの国旗になってしまったROMを“買う”“買わない”という選択肢を与えることで、人々が押せる明確な意思表明をするスイッチを設けたことも重要だ。論争をおこすだけで終わってしまっては、せっかく集まった消費者のエネルギーは空中分解してしまう。最終的に商品の価値へとフィードバックさせる仕組みを考えておかねばならない。そしてアメリカ国旗のパッケージに変わったROMに対して国民は大激怒したものの、「あれは冗談でした」と種明かしをし、1週間で元のルーマニア国旗へ戻したことでブランドエンゲージメントは大幅に高まったという。
イシューへの変換。論争力を高める刺激の投入。その受け皿の用意。アクションスイッチによる意思表明と商品へのフィードバック。このすべてがそろうことでアブダクティブ・イシューは完成される。


事例:AKB48選抜総選挙
アブダクティブ・イシューは国民的なアイテムであるROMチョコレートのように、社会的価値がある商品だけでなく、いかなる企業や商品でも適用できるメソッドだ。プランナーが意識的な生活者の心の琴線に触れるイシューさえ捉えていれば、どんな企業や商品でも着想することができる。
アイドルグループのAKB48が、次に発売するシングルCDのメインメンバーを選ぶためにファン投票を行う「選抜総選挙」も事例のひとつだ。選抜総選挙で行われていることは単純にいえばファンにアンケートをとって、人気上位のメンバーを選出しているだけである。だがここで巧妙なのは、ただの人気投票を“総選挙”という一世一大の行事であるかのようなイシューへ格上げした点にある。そして投票権を得るためにはCDを買って“投票する”という意識的アクションに結びつけることで、アブダクティブ・イシュー化することができたのだ。
ウェブやケータイなどプラットフォームを用意し、ファン同士で勝手に交流させればよいわけではない。アイドルとファンのあいだに強力なイシューを設定したからこそキャンペーンを成功に導くことができたのである。


マスメディアの構築機能
ここまでの議論を通してみると「アブダクティブ・イシューはだれにでも考えられるし、マネされやすい方法ではないか」と批判が思い浮かぶかもしれない。だがアブダクティブ・イシューは広告会社だからこそできるメソッドである。なぜか。
そこで広告会社のもうひとつのコアコンピタンスであるマスメディアのバイイング能力について思いを巡らせてみよう。マスメディアを活用しなければアブダクティブ・イシューの力を十分に発揮することはできない。理由はふたつ。ひとつはマスメディアの到達力によってイシューに集う参加者を数多く集めることできるから。ふたつはマスメディアはそもそもアジェンダセットを促進する力があるからだ。
立法・行政・司法という三つの権力に加えて、マスメディアは第四の権力になりうるといわれている。それはメディアには事件や情報をできるだけ早く伝えるという伝達機能、三権を批判的に監視して公開する監視機能だけではなく、社会問題に潜むあらゆる論点をオープンにし、なにが問題か枠組みを提示していく構築機能が備わっているからだ。
アブダクティブ・イシューはそれだけをありのまま提示するだけでは有効に働かない。設定した視点を常識化していくためにマスメディアというエンジンが必要となる。伝達機能や監視機能はコミュニケーションプラットフォームが担うことはできても、構築機能まで持ちえることはむずかしい。もし広告会社がメッセージを伝えるための箱としてしかマスメディアを捉えてなかったとすれば、見方を改めなければならない。これからの広告会社の価値は、視点や論点を設定するアブダクティブ・イシューと、世論を形成するマスメディアの両輪を駆動するユニークさにあるのだ。


3:クリエイターの可能性
対クライアントの戦略
アブダクティブ・イシューの可能性は生活者サイドだけに留まらない。クライアントに対してもアブダクティビティ(仮説推論思考)は、ますます求められるようになる。
広告会社はクライアントからオリエンテーションを与えられ、課題に対してコミュニケーションという解決策を提示することを生業としてきた。だが近年のオリエンはより高次元化し、実質上、広告提案だけでなくその源流となる商品開発や事業計画にまで及んでいるせいで、戦略コンサルと競合するケースも増えてきた。そのため広告会社のスタッフには、クライアントと密に接する営業に戦略思考を持たせることや、マーケティング系の人員がより前面に立って相対することの必要に迫られている。
ドリームインキュベーターを創立した堀紘一によると、業務改善型コンサルティングと経営戦略型コンサルティングの本質的な違いは、業務内容よりも志向性にあるという。業務改善型は企業が抱える生産ラインやワークフローのなかで発生している無駄を省き、コスト効率アップという課題を解決する。対して経営戦略型は、経営者が進むべき正解のない道を共に歩み、一緒になって問題を発見しようと挑戦する。*5
こう比較してみると、広告会社への期待も業務改善型から経営戦略型へシフトしていることがわかるだろう。しかも戦略コンサルより広告会社は、表現力やアウトプットを通して仮説形成する作業に慣れている。戦略コンサルとは異なった、むしろさらに高次な思考体系を生みだすことも可能なはずだ。


なぜなぜ思考とアブダクティビティ
クライアントという呼び名はそもそも“患者”に語源がある。そのため広告会社のビジネスは、医者が患者の病気を治療することによく例えられてきた。しかし現在のクライアントは、表面だけではわからない、もっともっと深い病原体を発見してほしいと要望している。だからこそいま本当に取り組まなければならないことは、その悩みを対症療法的に個別解決するのではなく、悩みの奥底に潜む病原体を炙りだすことだ。そもそも病原体を発見できなければ、特効薬は開発できない。
病原体を見つけるために求められる感性とは、営業のように目の前の出来事から対処しようとする帰納思考でもなく、マーケターのように理論やフレームワークを掛け算しながら考える演繹思考でもない。激変するリアリティに向きあいながら未来を予測し、ゼロから土台から築きあげようとする仮説推論思考=アブダクティビティにこそ次世代の想像力がある。
アブダクティビティをわかりやすく換言すれば、トヨタモトローラが生産現場で問題がおこった時に原因を究明するために社員に考えさせる「なぜなぜ思考」に近いといえる。そして広告会社のなかで最もなぜなぜ思考に長けた人材は、フラットに生活者の目線を持ちながら、先にアウトプットを頭に描きながら帰着点をイメージすることができるクリエイティブ系のスタッフだ。今後はクリエイターたちをセールスのフロントラインとして積極採用していくべきである。


事例:ポストイット
たとえばポストイットは、化学メーカーのスリーエムが新しいノリを開発している最中に、偶然にもはがれやすいノリができてしまったことから発想された商品だ。はがれにくいノリを開発するという大前提のうえでは、はがれやすいノリは失敗作でしかない。だがクリエイターはそもそもの条件からはみだし、枠の外から仮説する感性を持っている。“なぜ〜なのか”や“もし〜だったら”という発想に長けているということは、失敗したノリをみて「はがれやすいノリは、もしかするとはがしやすいノリとして使えるのではないか」とひらめくことができるかもしれない。その偶察を活かすためにも、クライアントの戦略的根幹に最も近い立場にポストを置かねばならない。
新しい発見をつかまえるため、見えない枠にとらわれずアイデアをつくる能力をクリエイターは日々のトレーニングで培っている。クライアントや営業からオリエンを受けた時、「そもそもこのままでは商品は売れない」「自分だったらこんな商品がほしい」といった言い分を戯れ言として受け流すのではなく、業務プロセスの出発点として正式に取り入れるべき時代がようやく訪れている。


4:Why to Say
寛容になれない広告会社
さて、ここでひとつの疑問がある。これまで広告人がクリエイティビティの可能性を大きく広げていくことを論証してきたが、そもそも広告会社は組織として創造的だといえるだろうか。
都市社会学者のリチャード・フロリダは、創造的な組織や社会には、共通して“3つのT”があると述べている。ひとつは人材の才能。ふたつは技術開発力。みっつは寛容性である。*6 この議論を広告業界に置き換えて考えてみるとどうか。広告会社は人材が最大の資産といわれるように才能には資源を惜しみなく投入してきた。広告配信の新技術、ビックデータの解析、アプリケーション開発やスマートグリッドなど新規事業にも積極的に取り組んできた。
しかし寛容性については十分とはいえないだろう。寛容性とはすなわち多様に対立する意見を受け入れるということだ。その観点でみると、広告業界はじつは異業種の中途社員が驚くほど少ない。効率や計画を重んじて、予期せぬ意見や行動を取り入れる余裕を失いつつある。マーケティングの常識と慣習にとらわれていたままではむずかしい。生活者の声を商品開発へフィードバックすることや、歯に衣着せぬクリエイターの発言を業務プロセス化することも寛容性のひとつとして挑戦していかねばならない。


“なにを伝えるか”から“なぜ伝えるか”へ
寛容な広告会社のあり方にむけて、最後に指針を示したい。これまでの広告会社におけるクリエイティビティとは、企業や商品が主張すべき“What to Say”はなにか明らかにすることだった。この企業にどんな価値があるか。この商品がマーケットに向かってなにをいうべきか分析し、それをどのように伝えるか“How to Say”を考えるフレームワークがあった。クリエイティビティとは企業や商品に内在する価値=コンセプトを抽出し、生活者に伝えることに本流があると考えられてきた。
だが震災によってこの価値観は大きく揺るがされた。福島原発の事故は私たちに休まらない緊張と不安をもたらした。これまで企業が行ってきた事業そのものへの疑念が生まれてきた。数多の企業はどんな商品をつくるべきか。そもそも自分たちがなにをすべきか深く大きな問いにぶつかるようになった。自分たちがやっていることの是非がわからなくなった。「私たちはどう生きるべきか」「いま私たちはなにをすべきか」という大きな問いが瞬く間に共有されていった。
不完全な時代のなかで広告会社は、自分たちのアイデンティティを問い直す“Why to Say(なぜ伝えるのか)”の姿勢を持つべきではないか。商品メッセージを大衆に伝えさえすれば御役御免という時代は終わった。商品の本質的価値を再考し、その意義から再設定する構想力こそ、次世代の広告会社のエネルギー源となる。
ニュースキャスターの池上彰は、池上が伝えていく事実に対してパネリストが本質的な質問をした時に「いい質問ですねぇ」とにんまり笑って、さらに驚きの真実を教えてくれる。良い問いは良い答えにつながっている。私たちは小さな答えをぶつけようと焦るのではなく、こつこつと大きな問いを掘りおこせばよいのではないか。

表2:本文中に頻出するキーワードの整理

*1:北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』、日本放送出版協会、2005年2月

*2:坂村健『不完全な時代 −科学と感情の間で』、角川書店、2011年7月

*3:Jonathan Zittrain,The Future of the Internet and How to Stop It,Yale University Press,2008

*4:マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』、早川書房、2010年5月

*5:堀紘一コンサルティングとは何か』、PHP研究所、2011年5月

*6:リチャード・フロリダ『クリエイティブ・クラスの世紀』、ダイヤモンド社、2007年4月