パリとアートインダストリー

ある機会にめぐまれてフランスーパリに1週間ほど滞在してきた。ぼくは子供のころからアートについて考えてきた人間なので、一度はパリにいかないとダメだと思いながらずっと行けてなかった。

30歳をこえてついに実際にルーブル美術館やポンピドゥーセンターに訪れてみると、教科書でながめてきたマスターピースの数々をみることができて素直に感動した。なんでここまで美術の供給力がちがうのだろう。基盤となる文化力(フランス風にいえばハビトゥスで アメリカ風にいえばソフトパワーでもどちらでもよいが)があまりにもちがいすぎる。アメリカーニューヨークにいったときも痛感したけど、欧州ー欧米とくらべて日本のアートはあまりに貧弱だ。

そしてぼくはずっと西欧のアートに憧れを抱いてきた。だったらさっさと日本から出ていって仕事したほうがいいはず。なぜぼくはそれでも日本にいるのだろう。


そんなことを考えながら、12時間ものせまいエコノミー席のフライトのなか、辛美沙『アート・インダストリー ―究極のコモディティーを求めて』をよんでいた。この本も日本のアートマーケットが不在であること、80年代のアートバブルを経験しながらもシステムとルールを整備しなかったツケがまわっていることを嘆いている。この本はたいへん示唆に富んでおり必読なのだが内容については別の機会で述べるとして、さて、そこまで辛は見通しがたっており、ニューヨークの大学で美術修士もとり、ニューヨークでギャラリーもオープンさせ生計をたててきたのに、なぜ日本に戻ってきたのだろうか。

アート・インダストリー―究極のコモディティーを求めて (Arts and Culture Library)

アート・インダストリー―究極のコモディティーを求めて (Arts and Culture Library)


ぼくは昔から「おまえみたいな考え方をするやつは、海外いくか外資系企業にいかないと日本企業ではやっていけない」といわれてきた。たしかにぼくは仕事もプライベート関わらず、あらゆる事柄を合理的に考えることをこのむタイプだ。慣習や文化よりも合理性をおもんじる。効果のたかい方法をえらぶ。だからアートをやりたいなら、さっさと海外にいけばよいはずだった。


それでもなぜぼくは、あるいは辛は、日本にいて、それでも日本という場からなにかを発信しようとするのだろう。まあ単純に、600万体の頭蓋骨がならぶカタコンブを観光化するヨーロッパ人の死生観や、ノドがやけるほど異常に塩辛く味付けされた料理たちには辟易としたので、この街には住めないなとおもったけど。辛も東京のライフスタイルが全世界のなかでも圧倒的にすごしやすく最高だといってるので、どこにいてもグローバルな活動ができると思ったから戻ってきたのかもしれないけど。でもなんだかんだ辛も、日本のアートマーケットの文脈で活動している。


ぼくもまた日本にいて、日本のなかでアート的な仕事をしたいと願っている。自分の力で切りひらかないとできないと思っている。たぶんぼくは、日本にはアートマーケットがないけど、ニューヨークがでっちあげたように、パリがその作法を追従したように、中東やアジアが資本の力でむりやり成立させようと懸命なように、日本でもその勃興は可能だと心のなかで信じている。

日本のアートは残念かもしれないけど、クラフトワークはどの国よりも優れている。足りていないコンセプトや言語、コミュニケーション作法の力は埋めることができる。そのスキルをきちんと磨いておけばいずれ機会があるはずだ。

そしてそれは感覚的なものだけでなく、合理的にかんがえてもぼく自身の努力からはじめることができるはずだと算段がついているから。その合理は直感に基づいたりしてるのだけど。