2014年の抱負

2014年になった。32歳になった。電通に転職しておよそ3年たった。社会人になって10年たった。

これまでのぼくは実務と理論の融合、実学から発生したプラグマティックな研究、といったことを標榜し、自身のポジショニングを長らく考えてきた。しかし30代となったいま、もはやそんなこともどうでもよくなってきた。優れているものは優れていて、ダメなものはダメ。どんな領域にいようと関係ないと思ったからだ。


アカデミシャンだからといって理論的に優れているとはいえない。実務家だからといって仕事がバリバリできるわけではない。優秀なひとはどこにいても優秀で、なにをやらせてもおもしろい。そしてぼくがいま属している実務界は、たいへん優れたひとがたくさんいる。彼らに勝たないかぎり、領域を飛びこえるもクソもない。勝つしかない。負けたら去る。それだけだ。そんな当たり前の話を10年かかってようやく気づけたのかもしれない。

なのでぼくはまだまだしばらく実務をやり続けようとおもう。どうせ理論と実務は融解するから、本当にすぐれた実務をやれば理論化するはずだ。そうでなければそれはダメな実務ということだろう。


さて、そんな2014年の抱負として「やりたいことを決める」にしようと思っている。32歳になってなにをいまさら、という感じだし、おまえのやりたいことってすでに絞られてるじゃないか、とツッコミ受けそうなものだが、ぼくのなかではいまだに具体化していないのだ。

ぼくは昔から広告表現の理論化を目標にしている。それではどんな表現方法で、どんなやり方で、どんな形式で理論化をするのかはいまだにはっきりしていない。いくつか腹案はあるが、これだと思える骨子がいまだにつくれていない。


広告表現といっておきながら、ぼくがながらくフォーカスしてきたのはむしろ構造主義的なやり方だった。構造的(批評的あるいは政治的とまで揶揄してもいい)な視点によって表層が規定されることのおもしろさにハマっていたが、よくまわりを見渡すとそれはだれでもできるアプローチである。構造的な視点は器がでかくみせれるし共感も呼びやすいからもっともベターなのだけど、その方法で東浩紀を超えることはできないし、ぼくならではの視点ではなかった。


ここで話をすこし脱線させる。コンテンツとメディアという二層構造は、どちらも不可分に影響しあってきた。ぼくはもともとコンテンツ側に属して考えを深めてきたが、この数年はむしろメディアについて考えざるをえない状況が続いた。メディア優勢の時代はいまなお続いている。そこでぼくはどちら側を選ぶか、という発想でスタンスを考えてきたが、いまの時代、このふたつは切っても切り離せない。セットで考えることは基本形となることがわかった。

ではそのうえでぼくはなにを研究していくべきだろうか。もちろんいまの活動の流れで研究を深めていけるものはたくさんあるし、日本のなかでぼくが第一人者だといえなくもない領域もつかめている。だがぼく自身が、その活動そのものに疑いをもっているとそれ以上、深めようという気にならない。研究するなら一生信じられることを研究したい。まだそれがどうも見つかっていない。永遠のモラトリアム迷宮に陥っているかもしれない。


もうひとつの抱負をかかげようと思ってるのは「やりたくないことはやらない」ということだ。これはサラリーマンの否定かもしれないが、ぼくにとってこれは大きな行動指針になる。もしかするとこの抱負を守っていくことで、ぼくがやりたいことがより鮮明に浮かびあがるのかもしれない。

ぼくはこれまでどんなことにもチャレンジしてきて、そのおかげでいまのぼくが形作られている。だがこの数年、その態度のせいで中途半端になって失敗した経験をぼくはいくつもした。いろいろ決断しないといけない時期にきたとおもう。


やりたいことを決める。やりたくないことはやらない。10年かけて当たり前の自分探しに立ち戻った。徹底して自らの基礎をみつめなおす1年にしたい。

そういえば10年前のぼくは自分がメディアアーティストになっていると想像していた。これから10年後のぼくはどうなりたいと想像することにしようか。そして実際どんな姿になっているだろうか。