12×規律から管理へ3
息抜き的に記してしまうが、正直情けないことに、なかなか思考を深める時間がない。いや、むしろちょっとしたスランプだと強がってみよう。まだまだ規律から管理へ、というアイデアで止まっている。とりあえずこれまでの議論をまとめておくが、ではどうすればよいか、という本題に早く取り組まなければ…。
- 映画『マイノリティ・リポート』を用いたプロダクト・プレースメントは、広告を半透明化させることで人を規律訓練させる手法であり、近代的である。
- また『マイノリティ・リポート』の主人公は、パーミッション・マーケティングによって広告に管理されており、ポスト産業資本主義的な振る舞いである。
- つまり前者はフーコーのパノプティコンであり、後者はドゥルーズの管理社会としてそれぞれ照応できる。北田暁大はベンヤミン『パサージュ論』を参照して、半透明なパノプティコンの世界観を「広告の幽霊化」と名指したが、私は彼らに倣い、透明でもあり不透明でもある管理社会において、広告が採用したポジショニングを「広告の地縛霊化」と名づけておく。
- ここで注意しておきたいのが、幽霊も地縛霊も種類こそ違えど、同じ霊魂であり、忌み嫌われがちな対象という意味では同根なのである。
- 80年代、ポストモダニズムが一世を風靡した頃、広告にもその嵐が襲った。その中心的な骨子は「ポストモダン・アドは広告の概念を変える」というものだった。しかし松井剛が指摘しているように*1、本性的にマーケティングとは進歩主義史観の発想であり、80年代のそれはポストモダンの上澄みを援用したに過ぎない。
- つまり、広告においては幽霊も地縛霊も同じく、近代マーケティングの範疇であり、すべて吐きだすまで消費を駆動させ続ける論理のうえに成り立っている。言い換えればポストモダン・マーケティングとは呉越同舟の言葉であり、本来は相容れない矛盾した論理なのだ。
したがって私たちは、以下の課題に答える必要がある。
- 広告をみんなに好きになってもらうためには、どうすればよいのか?
- そのために、消費を管理しない広告のあり方とは可能なのか?(それはもはや資本論からの脱却なのか?文化もまた資本と見出せばアリなのか?)
- 真のポストモダン・マーケティングとはなにか?顧客中心主義を脱することがそうなのか?
なるほど、前半の現状整理は学術的であり、後半の課題提起は実践的である。実践を示すのはやっぱり難しい。
*1:「消費論ブーム:マーケティングにおける『ポストモダン』『現代思想』2001年11月号
http://www.seidosha.co.jp/siso/200111/