13×広告は嫌われる

これまで問題があまりに学術的に陥りすぎたかもしれない。問題の本質をシンプルに捉えなおすことで、絡み合った糸がほぐれていくような気がする。そもそも私たちが答えなければならないのは「なぜ広告はこれほどまでに忌み嫌われてしまったのか?」という問いである。


広告を見たくないという風潮がリミットを超えてしまったからこそ、業界は仕方なく幽霊的なプロダクト・プレースメントを導入したし、さらにそれがうっとうしくなれば(いや、すでにプロダクト・プレースメントに拒否感を示す消費者データは発表されている)、欲しがる人にのみ憑依していく地縛霊的なパーミッションマーケティングが好まれるだろう。そして前回、私はパーミッションマーケティングの世界像では、資本を参照項とした階級格差が拡がっていくと指摘した。かつてボードリヤールは誰もが主体となりうる消費というキータームを用いることで、当時のフランスにおける階級格差を消滅しようと試みていた。消費社会が自明の理となりグローバル化が極まれば、逆に格差が生じたうえに、ユビキタス管理ネットワークという王朝によって支配されるのだから、これは退行ではないか。皮肉なものである。

話が横道にそれた。つまり私たちは、広告は押し付けなんだし、買ってくれと一方的にせがむプロポーズなんだから嫌われるのは仕方ない。だから気付かれないように好きになってもらうよう仕掛けたり、好きになってもらえそうな望みのある人にだけプロポーズすればいいや、という偏屈で情けない男になっている。広告は好きな人がひとりだけで気が済まない浮気性な奴なのだ。なぜならば「広く告知し、広くモノを買ってもらう」ことこそ広告の使命である。マッチョな言い方で申し訳ないが、一夫多妻こそ広告の模範なのではないか。


では広告はどうやったら好きになってもらえるか。かつての繁栄期には「AはBだから買ってくれ」的なストレートな文句は徹底して避けられ、「Aには様々な価値がある」とだけ暗喩メッセージを残して広告は人々の前を去っていった。消費者はその含みのある態度に想像力を沸き立て、それが消費力に直結していった。要は押しつけがましさに私たちは辟易としているのだから、営利の影をなるだけ排除することが、すなわち好まれる広告と考えられるようになった。

では究極に言ってしまうと、企業ロゴを取っ払った、誰が出資しているかも判別としない広告は好きになってもらいやすいのだろうか?次回に論考を譲るとしよう。