15×メセナ2

来週早々までに、この広告論のまとめを12000字程度に書き上げねばならない現実にうんざりしつつ、さらにまだ自分の結論にまったく自信が持てない。とはいえタイムリミットも迫ってきたので、そろそろ答えを決めつけねば…。


さて前回の議論では、私たちはメセナ活動とその出資企業における主体客体の関係を切り離し、まったくの別価値として捉えてしまうため、企業と文化は連動せず、相乗されないと分析した。

だが筆者としてはウィークポイントを削ぎ落とし、メセナの最良の部分だけを浮き彫りにすれば、必ずしも本質から踏み外してはいないと考える。ではその弱点とはなにか。それはメセナそのものではなく、むしろ観客側、つまりメセナを受け入れる者、受け入れない者に峻別されてしまうアンバランスさに問題があるように思う。


ちょっと混乱させるような言い方だったかもしれない。どういうことか具体的に考えてみよう。例えば東急のBunkamuraは芸術文化支援であるが故に、芸術に興味ない人にとってみればまったく関与をしないだろう。Bunkamuraミュージアムに訪れる観客も、今月のウォーホール展は観にいくが、来月の印象派絵画は嫌いだから行かなくていい。いやむしろウォーホールだけでBunkamuraは終了だ、次はサントリーミュージアムだ、などとのたまい、東急と芸術愛好者を結ぶ文化的な回路は非常に短いスパンで完結してしまうケースの方が多いのではないか。当たり前だがメセナはマス広告に比べ、圧倒的にリーチが狭いのだ。

かといってメセナだけでなく、CSRも含め文化活動の裾野を広げようという考えは安易に過ぎる。費用的にも限界があるし、それだけ広げてもクリエイティブ・コンシューマー化した大衆へのリーチ力はたかが知れているだろう。私たちの生活は複雑であり、私たちの嗜好も複雑である。そのためメセナの主張は狭く、意図せずして企業の一方的主張に陥ってしまいがちなのだ。


ここまで立論した上で、そんな弱点をカバーできるのではないかと思えるアイデアを筆者は抱えている。そのアイデアですべてとは言わないが、ある程度数の嗜好にマッチさせ、ある程度数の人々にその広告(企業)を好きになってもらうことが可能だと思う。運用スキームがまだ想定しづらいのだが、やはりクリエイティブ・コモンズに近い形であることは間違いなさそうだ。


次号ではクリエイティブ・コモンズを用いた、かなり変わった広告出稿の形態について想像力を拡げてみたいと思う。ではまた近いうちに。