3×朝のリレー

(最近 広告の話ばっかりで気が滅入ってしまうが…ネタがないので)
ネスカフェの企業広告がACCのグランプリを取った。

http://www.acc-cm.or.jp/festival/04fes_result/index.html
http://jp.nescafe.com/tvcm/morning.html

国内では最高の栄誉に輝いたこの広告は、ぼくの大学の一年上の先輩が携わったものでもある。その面に関しては彼に惜しみのない激励を送りたいが、同時にぼくは中学生のころ、教科書でこの「朝のリレー」を読んで、なんとも胸くその悪い気分を拭えなかったことを思い出していた。


授業でこの詩の感想文をぼくらは提出した。周りの同級生はやいのやいのと賛辞を送っていたのに、なぜぼくだけあんな罵詈雑言を浴びせたのだろう。そもそも詩というジャンルが嫌いという理由もあるが、やはり『ぼくらは朝をリレーするのだ』という一節で、詩のくせにわかりやすく起承転結させた広告的手法に、中学生のぼくはゾゾゾッと気味の悪いものを感じていたのだろう。

この詩が醸し出す、いかにも広告的な空気はあっさりと広告化されるんだろうとぼくは常々思っていたが、ではその広告的とは一体どういうものなのか。

よくいわれるそれは宣伝臭いという意味だが、私の感じる広告的とはそれではない。広告的とは、一見結びつきようのないAとBを、理屈めいてさも何でそれに気がつかないのよ、と自慢する手法にある(ぼくは誰よりもそのやり口が得意だからよく分かる)。谷川俊太郎さんの詩がそうであるといちいち難癖は付けたくないが、広告の作り手はもっと精神異常者であるとか狂人もしくは自殺願望者に書かせるとおもしろいんじゃないか、となんの因果も論理もくそもなく今回をしめてみる。