8×カルスタ

紀伊国屋書店で行われた『東京スタディーズ』刊行記念のトークショーを覗きにいった。編者である吉見 俊哉と若林 幹夫に加え、ライターの一人である北田 暁大による鼎談であった。

ポストモダンの良質な嫡子として拡がったカルチュアルスタディーズ。その典型である『東京スタディーズ』は、新宿・渋谷・池袋などの山手線エリアから拡散して臨海副都心(お台場)、六本木ヒルズ、ディズニーランド、果ては横浜/みなとみらいまでを網羅した知的ガイドブックとして執筆されている。それら都市の書かれ方は、80年代消費社会論の延長であり、反省の振るまいでもある。


北田は今日において人は、都市の中で主体を生成したり、記号を読み込む欲望が費えて、情報をザッピングする散逸的(CF的)まなざしを身に付けてしまった、と主張する。だからかつての都市論で生かされたタームは適合できず、都市の観察図式は変容せざるをえない、という。そうかもしれない。しかし本当にそうなのだろうか?確かにオウムの人々や秋葉原で萌える人々のまなざしは、まったく転倒したものだ。彼らを照準すればなるほど、すべての都市論は失効するだろう。しかしながら90年代後半の典型でしかないこれらの物語が日本の空間を均質化させてゆくには、まだ時間がかかる。あまり早計に過ぎるだろう。


そして知識人は逃走する80年代をあまりに否定しすぎる。否定するわりに彼らの語り口そのものこそ、かつての所作が見え隠れしなくもないのだ(無闇なジャーゴンこそ抑制されているが)。
つまるところこの鼎談を眺めるまでもなく、所々でなぜこうもニューアカ的な80年代論はいまもなお息を潜め、直接に語られずともその残滓を否応もなく感じさせてしまうのだろうか?例えば以下のような問題系がぼくの脳裏を掠め続ける。本人たちは必死で否定するだろうが、かつての浅田彰は広告代理店の回し者だと揶揄されるし、その後継者というポップアイコンを任命された東浩紀が、博報堂の広報誌の表紙に大きく取り上げられるし、最近流行のマーケティング(ホリスティック〜、エモーショナル〜etc)はポストモダニズムの変奏か斜に構えて考察したものか。細部まで眺めない無知蒙昧なぼくには、そのように映る。


ぼくはこれを断罪したいわけでない。むしろそれは必然的な帰結なのではないか。詳しくは今夏の論文で明らかにしたいが、カテゴリーを越えて様々な言説は、80年代の反復を意識的、あるいは無意識的に試みていると考えうる。なぜか。つまり80年代に語られた消費者像は80年代において徹底されておらず、むしろ90〜00年代に前景化したからこそ、かつての言説が有効になっているのではないか。そんな予感が日に日に高まっているのだ。

東京スタディーズ

東京スタディーズ