11×規律から管理へ2

以前からぼくは『トゥルーマン・ショー』で描かれた広告が脱臭化された幽霊的な世界から、『マイノリティ・リポート』のバイオメトリクスで監視された近未来広告への移行を、それぞれフーコードゥルーズを参照しながら捉えてきた。前回の章で「規律から管理へ」と名指した2つの権力モデルは本性的に、群衆を稼働させる社会システムである点でいえば同質だ。


東浩紀大澤真幸の対談を記録した『自由を考える』によると、特に管理型の権力は偶有性を排除してしまう点で人間の「他でありえた可能性」を奪いかねない、と指摘している。偶有性を例えるならば、神保町でブラブラ古本屋を散策しているとこれまで関心もなかった未知の本と、運命の出会いがあったかもしれない可能性、という意味だ。このような本との古典的な出会いを、アマゾン・ドットコムのような人間の行動を追跡し記録するトレーサビリティシステムは奪っていくと危惧している。

自由を考える―9・11以降の現代思想 (NHKブックス)

自由を考える―9・11以降の現代思想 (NHKブックス)

つねにクッキー情報やユーザー認証を得ている電子商取引において「衝動買い」は、かなり高い確率で生じている。それはリアル店舗で起こる「衝動買い」より遥かに付随的であり、心証としてインサイトされてもいる。それが発達すれば『マイノリティ・リポート』で描かれたように、街を歩けばその人だけにしか訴えてこないキャッチコピーが踊り、GAPに行けばその人にしか応募できない固有のキャンペーンが行われることも技術的には可能であろう。

このように顧客の承認を得たうえで、その人の趣味・嗜好を登録エントリーしてもらい、カスタマイズされたダイレクトメールを送る手法はパーミッションマーケティングと呼ばれている*1。上記に挙げた管理社会の例は、その進化モデルといえるだろう。

パーミッションマーケティング」で明らかなように、管理社会とはすなわち顕名社会であり、それぞれの所属や身分がメンバー全員に共有されている要塞型のゲーテッド・コミュニティを形成していく。つまり財の豊かなブルジョア層には高級ブランドの広告を与え、与えられたブルジョア層はその優越性に浸るもの同士でコミュニケーションを育む。一方で貧困なプロレタリア層には、もはやプロパガンダしてもムダだ、と判断され、彼らの目では広告を映さなくなる。そんな残酷な状況論も語りえるのではないか。


ではその真ん中に位置する圧倒的多数の平民たちは、ブルジョアとプロレタリアのどちらに親和を図っていくのだろうか。仮定を待つまでもなく、もはやすでにポスト産業資本主義社会*2に慣れ親しんだ私たちはブルジョアに寄り添った消費行動をとっている。とすれば私たちは必然的に自ら、管理されることを望むようになるだろう。少なくとも「欲しいものがすぐ手に入る便利さには変えられない」と、躊躇しながらも個人情報を投げ売りできるはずだ。そこで幾らでも手に入る利便性を追い求め、私たちは同時にかけがえのない偶有性を失うことになる。つまり欲望の赴くままに広告というエサがオートマティックに供給される世界が圧倒していくのだろう。


次回はこういった状況論を越えた社会、つまり偶有性のある管理のない社会=リバタリアン夜警国家とはなにか、描いてみたいと思う。

 

*1:SmallBiz「パーミッションマーケティング」『3分でわかる最新ITキーワード』
  http://smallbiz.nikkeibp.co.jp/members/ITKEYWORD/20030213/102672/

*2:参考:岩井克人『会社はこれからどうなるのか』2003年2月 平凡社