5×利己的な貢献

伝播投資貨幣PICSYを提唱する鈴木健は、先日、GLOCOMフォーラムで自身のPICSYや、はてなの仕組みを「知らず知らずに社会貢献してしまうようなシステム」だと形容していた。これと繋がる話題であるが、2005年8月26日の日本経済新聞では「自己主張の世紀」と題してホワイトバンド普及の背景について評している。

はてなキーワードwikiとほとんど同じ考え方で、はてなダイアリーでの自己主張がそのままシステム的にキーワード生成に貢献している。あるいはホワイトバンドを若者が手に装着するのは、サッカーの中田英寿Mr.children桜井和寿といったオピニオンリーダーが賛同しているから自分もつけよう、という付和雷同でファッション的な欲望が、どう社会と関わっていくかという意思表示に連結されてしまうわけだ。


振り返ってみればポスト産業資本主義下における社会貢献事業とは、ある程度、即物的で動物的な行為に便乗した形で遂行せざるをえないのではないか。例えばPOS管理やサプライチェーンマネジメントを徹底させたコンビニエンスストアでは、レジキャッシュの横に募金箱が必ず置かれている。これはコンビニに通う若者は道徳意識が高いから募金してくれるわけでなく、1円10円のおつりや小銭がわずわしいので隣の箱へ投げ捨てているのだ。とはいえ主催者としてはその御心が道徳的であろうが、利己的であろうが、募金であり同じ貨幣であることに変わりはない。


私は最近、そもそも文化とは何か、というラディカルな問いに答えることは本当に可能なのか、自問自答し続けている。文化とはそもそも一握りの人間が、高度な意識と英知、技術で作り上げるものではない。伝統芸能がそうだが、すべての人に開かれた言語空間があるからこそすべての人が文化形成に関与していくのだ。

したがって情報社会における文化とは、技術(インフラ)を地盤としたプラットフォームの上で、無差別的にすべての人が無限にも思える素材を選んで使い、無意識的に紡がれていくものではないかと直感している。そこに文化をつくってやろう、という意識は必要とされないのである。


東浩紀ised理研での議論で「世界が複雑になりすぎると人々はもはや情報量をすべて処理できない。複雑性を縮減するためには、コンピューターに予め個人情報が実装されてなければならない。車の免許を取るのに個人情報を渡すのが当たり前のように、情報社会における倫理とは、各システムにデフォルトで個人情報を明け渡すことではないか。」と発言していた。

私たちが形成すべきはプラットホームの持続であり、そのためにほんの僅かな提供をすればよいのであって、貢献しようとかムーブメントを起こしてやろうという精神は必ずしも良い結果を生み出さない。いってみれば誰もが集まれて過ごしやすい白いハコをつくり、そこで議論やクリエイティビティが生まれやすい雰囲気をつくれば、勝手に文化はできあがってしまうのだ。そしてそんないい加減で考えのない考え方こそが、先人が築いてきた文化だったのではないか。