12+18×串を刺す

博報堂小沢正光という人の考え方は、最も感銘を受けた小話のひとつである。彼はクリエイターであるがクリエイティブはビジネスであり、訓練によって達成できうるものだ、と喝破したうえで、広告コンセプトはアウターだけでなくインナーにも共有されねばならず、それを小沢は「串を刺す」と表現していた。

つまりアサヒビールという商品に関わるのは何も消費者だけでなく、メーカー、小売、卸、自社の中でも経営トップから、中堅社員、販売スタッフなど様々な価値観の人間がアサヒビールの生態系に住み着いており、だからこそ広告はこのすべての人を納得させねばならない。そんな「串を刺す」言葉はなにか、と問われれば消去法で考えて“最高”のほかあるだろうか、と小沢はいう。アサヒビールは最高の品質を最高のスタッフがつくるからこそ、お客様にも最高のノドごしを提供できる、というわけだ。


小沢は哲学科出身で教師志望だったという程だから、関与主体すべてに届く、つまり串を刺す言葉はなにか、本性的に求めているのだろう。数年かかって私はようやく小沢の問題意識に追いつくことができたように思う。新興勢力に過ぎなかったアサヒビールであったが、微々たる力たちを纏め上げる言葉さえあれば、巨大資本力キリンビール)に対抗できうることを図らずも証明した。小沢のコンセプトワードという振る舞いは、コミュニティ形成のための作法なのである。

コミュニティ形成という目的のために、串を刺す、というのは人文的な手法論である。経営学的な手法には金融機関の再編に著しいM&Aの資本的な力学に頼ることができるし、工学的な手法としてはWindowsのOS普及戦略で採用したネットワーク外部性マーケティングがある。とはいえ説明するまでもなく、情報社会では、はからずも人文的、哲学的、小沢的な戦術は蔑まれ、なかなか有効性を発揮できなくなっている。いま求められるのは経営工学的なパワーマネジメントによって主体を一元化しようとする趨勢だろう。


だが私は串を刺す言葉は、どうしても必要な気がしてならない。というのも人文的な学と経営工学的な学はどちらか選べ、という二項対立ではなく、並存せねばならないと思うからだ。言い換えればコミュニティ(人文)を支える地層がプラットホーム(=経営工学)であり、この2つはお互いに根を張りあっている。

つまりアサヒビールキリンビールはそれぞれが独立したコミュニティであり、それぞれの内部を纏めるのに最も有効なのは、トップが発する社是や企業精神など、串を刺す言語力である。だがアサヒ、キリン、サントリー、サッポロの間を繋げるのはもはや言葉で補えない難しさがある。まったく異なった価値観を統合するのに必要なのは、資本の持ち合いや酵母開発の技術共有といった客観性を帯びたシステマチックな試みであろう。