2×感動

「感動」というテーマが与えられた。このテーマを聞いて私は即座に、芸術や文学で感動を受けるような、人の情動はいかにして解析可能か認知心理学の問題を捉えようか想像したが、やめた。それはある種、ゲノム解読するより難しいし、自らの領域を超えてしまっている。なのでもっと泥臭く、個人的にこれまでで最も感動した体験を、映像と小説それぞれひとつずつ挙げてみたいと思う。

決定版 三島由紀夫全集〈19〉短編小説(5)

決定版 三島由紀夫全集〈19〉短編小説(5)

そもそも私が芸術(広い意味で)を嗜好したのは右脳が発達していて、美的感性が鋭かったわけではなく、むしろ暗号への欲望、わからなさへの窮乏、そしてそれを解き明かしてゆくダイナミックな手触りを求めていただけだったように思える。

例えば当時、高校生現代文の教科書にのっていた短編小説に、三島由紀夫の『復讐』がある。その尻切れトンボな中途半端な結末を読めば、私は三島はなぜそのような描き方をしたのか、三島は何を言わんとしているのか。小説中の家族たちの心理をリアリスティックに情景に浮かべ答えを導き出そうとし、その答えを先生に進言した瞬間、ものすごく興奮していた。
同じようにスタンリー・キューブリック『時計仕掛けのオレンジ』も、ファッション誌をめくっていたらその映画のタイトルの不可解さに魅かれ、闇にまどろむような美しさの中にひそむ怠惰に食指を誘われた。結局、5回も繰り返し観てようやくタイトルの意味がわかった程度の読解力だったので、浅はかな鑑賞をしていたと思うが、いずれにせよ当時の若者はその左翼的な思想にも、映像美の魔術にも、深く感動を覚えたものだった。


それから私は大学で美学を学び、人はなぜ芸術に感動するのか、あるいはどんな絵の描き方、パターンを組めば人は感動するのか考えたかった。だからあえて理屈っぽく、左脳的で哲学的な命題を常に設けようとしたが、しょせんそれらも人文的な手段に過ぎず、根本的な解決にはなりえなかった。東浩紀の『動物化するポストモダン』では、萌え要素という記号論的な切り口で見事に感動を図解化しているが、とはいえその理屈もオタクの集団行動を統計的に定点観測したその結果に過ぎないといえばそれまでだ。人はなぜ感動するのか、本当の答えはいまだ見つかってはいまい。

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

今でこそ私は三島とキューブリックの世界から少し遠く離れて、世の中のちょっとわからないことさえも、わかりやすい照らそうとする群れの一員に染まりつつある。わからないことがあるからこそ人は感動するのであって、すべてがわかりきってしまえば感動することは何もない。本来これは当たり前の真理なのだが、そのような彼岸に立つことさえもはや許されない。つまり全てをわかりたいと欲望してしまう困難な境地にさえ、私たちは追い詰められている。