26×メディア再考2

インターネットは創造を助長する「アフォード・メディア」とすれば、既存メディアはそれを包括し概観する「メタ・メディア」だと捉える。

鈴木健アラン・ケイを以下のように評している。

 パーソナルコンピュータの父と呼ばれるアラン・ケイが、その概念を発表した論文のタイトルは、「パーソナル・ダイナミック・メディア」である。パーソナルコンピュータとはパーソナル・ダイナミック・メディアにつけられた別称である。彼は、パーソナルコンピュータを「個人が動的にメディアを作るメディア」すなわちメタ・メディアと位置づけていた。
 マクルーハンの「グーテンベルクの銀河系」を半年間他のことを何もしないで読み込んだアラン・ケイは、コンピュータを"コンピュータ"と呼ぶことに違和感を覚え、"メディア"と呼ぶようになる。そして今までのどのメディアとも違うのは、それがメディアを作るメディア、メタ・メディアであるという洞察に至る。
 パーソナルコンピュータが「メディアをつくるメディア」すなわちメタ・メディアだとして、それが印刷技術のように世界にあまねく普及するというのは、どういう状態なのだろうか。そのことを議論するために、アラン・ケイは"コンピュータ・リテラシー"という言葉を作り、識字率を100%に上げるがごとく、世界中の人がこのリテラシーを持つべきだと宣言した。
 コンピュータリテラシーとは、すなわち、コンピュータを使いこなす技術のことである。だが、ここで"使いこなす"というのは、決して、コンピュータ上のメディアでメッセージやコンテンツを作ることではない。つまり、アラン・ケイの定義によれば、2chはてなmixiでメッセージを送信しあったり、WordやExcelで文書を書いたり、IllustratorPhotoshopでかっこいいコンテンツを作成しても、コンピュータ・リテラシーを持っていないことになる。それでは、「メディアを作るメディア」としての特徴を活かしていないからである。
 では、プログラムを書く技術があればいいだろうか。アラン・ケイは「プログラムは勉強さえすれば誰でも書ける」といいう。つまり、世の中にいるほとんどの職業プログラマーはコンピュータ・リテラシーを持っていないということになる。
 アラン・ケイを代弁すれば、はてなの開発者の近藤淳也greeの開発者の田中良和のような人はコンピュータリテラシーをもっていることになる。近藤氏は、はてなを作る前にプログラムの素養はほとんどなく、プロのカメラマンであった。田中氏は大学時代は法学部政治学科出身で理系でさえなかった。
 しかし、彼らは強い意志と優れた能力を持った特別な人たちだと、人は言うだろう。確かに、ユーザが10万人を超えるメディアを誰でもがつくれるというのは、ほとんどありえないことだ。そうではなく、誰もが自分のためにメディアを作れるようにするためにはどうすればよいか、アラン・ケイは考えた。はじめての完全に動的なオブジェクト指向言語smalltalkはそのようにして発明されたのである。
 アラン・ケイは、"誰でも"をはじめから子供たちにまで広げて考えていた。子供たちでも立派に文章は書ける。だから、子供たちでも立派にメディアを作れるはずだと考えた。そしてアラン・ケイは、コンピュータを教育の道具として使うのではなく、コンピュータを道具として教えるのでもなく、「メディアを作る」教育をすることが極めて重要だという知見に基づいて、優れた教育論を展開した。
 「アラン・ケイ」は極めて一貫した思想の持ち主であり、以上のことは4つの論文に散在した内容だが、一貫した流れの中で理解しなければならない。「パーソナルコンピュータ」「オブジェクト指向」「コンピュータ・リテラシー」「教育論」「メディア論」は、彼の別々の仕事ではなく、一つの仕事「『すべて』の人々がメッセージだけでなく『メディアを作る』ことができるようになるためにはどうすればいいか」、ただその一点に集約される。
 その環境は、Web 2.0以降の世界において、どのように実現されるのだろうか。ユーザがメディアをつくれるメディタの萌芽はいくつかみられる。ning.comは、誰でも人のソースをコピーしながらソーシャルウェアの開発・運用ができるというサービスだ。salesforceのAppExchangeはエンタープライズの世界でそれをやろうとしているし、secondlifeは3Dオンラインゲーム空間上でオブジェクトの挙動をユーザがコーディング可能とし、次世代のWebを予感させる。
 このような新しい潮流は、Web 2.0の先にあるもののように見えて、実は古典の中に埋もれている。もちろん世界の進行の微分を感じ取ることも重要だが、時には骨太な古典の中から次になすべき仕事を考えてみたい。