43×地上デジタル放送

事情あってこのような小論を書いた。地デジなどほとんど興味ないので、無理やりニコニコ動画の話にしている。そっちの方がラディカルだしね。とはいえ下記の小論は、私の最新の考え方をわかりやすく整理できたように思う。よければご感想などお願いいたします。



■ 地デジ放送で変わる 受容態度と制作概念と 広告人が成すべき仕事

全国民に多層的な情報環境が広がることは、新しい広告の構造をもたらす

いよいよ地上デジタル放送が2011年に本格稼動される。その主な特長は、高精細映像=ハイビジョン、多チャンネル化、番組表がテレビで見れて録画予約が簡便化したり、クイズやアンケートなどの双方向サービスが受けられるなど受け手が能動的に情報に参加・活用できること、など様々であるがその根本には、デジタル圧縮技術によって生まれたものだ。
メディア史を一望しても、圧縮技術は新しいメディアの生成や消費行動に大きく寄与するものだ。圧縮技術は現実世界でロジスティックスを変え(郵便や食品物流に顕著だろう)、サイバースペースでも情報流通を加速化させた。
その帰結の一つとして例えば藤原治は、『広告会社は変われるか』の中で、地デジの登場によって「eプラットホーム」が創出すると述べている。*1 これは最も影響力の高いメディアであるテレビがデジタル化することによって、インターネットで流通する情報と同期化されて、一元管理するコンテンツホルダーを想定した概念である。既存メディア各社はコンテンツプロバイダに後退し、コンテンツ間の熾烈な競争が起きるというものだ。

そして圧縮技術は、メッセージの構造も変えてしまう。一画面内での複数の同時放送や天気などのニュース情報を、同画面内、同時間帯に摂取する環境を生むことは「ながら読み」を助長していく。サッカー中継を見ながら政見放送を聴き、明日の天気を気にしながら通販番組で商品購入したりクイズに答えたりすることをすべて、圧縮して受容することは、人間の情報処理能力を揺るがしてしまう。その意味で、地デジ放送は2000年のブロードバンド元年よりも遥かに、コンテンツの受容と読解を変容させる可能性を秘めている。
本論では、デジタル圧縮技術によって可能になった地デジ放送が、テレビ/商品販売/広告/インタラクティブゲーム/ユーザーコメントなどのコンテンツを複層的に重ね合わせ、新しいコンテクストと新しい広告構造を産み出していく事業環境について考察を深めたいと思う。



マルチチャンネル編成とサイマル放送は、新たな広告の読解を産み出す。

藤原がいう「eプラットホーム」の発想は、地デジがもたらしたコンテンツの一元化により個々人の嗜好に合わせた、つまりGoogleAmazonのようなカスタマイゼーションされた広告配信を予想しているように見える。
しかしこれはあまりに素朴すぎる提案だろう。そもそも近代社会がもたらした暗号や圧縮の手技は、情報量の増大により整理しきれなくなった情報を縮小することで、自分に必要なものだけをファイリングしようという要望に応えている。またeプラットホームは全方位的な個人情報の収集が前提となるため、その実施は極めて困難だ。国家は「住民台帳基本ネットワーク」でそれを試みたものの、失策に終わった。メディア間での利権調整など、現実論を振りかざしてしまうようだがGoogle的なeプラットホームの夢は、日本ではあまりにも幻想に過ぎる。

地デジ放送をインターネットの画面に見立てて、クリックにより商品購入ができるバナー広告やクーポン広告、検索連動広告やアフィリエイトなど同様のビジネスモデルが頻出することは想像に難くない。実際すでに電通は、TBSと協同で野球中継内で次のイニングで特典付きの予想クイズを実証実験で行っている。
このようなネット広告の事業を模倣したニューメディアは、いくらでもアイデアの数に比例して誕生するだろう。しかしながら本論で考えたいのは広告メディアの形状ではなく、地デジ放送によって変容する消費者の受容態度と、その態度を見据えた上で創られてしまう製作者の姿勢といったクリエイティブへのまなざしであった。
地デジ放送は同画面内に異なったコンテンツを並置する「マルチチャンネル編成」と、かつデバイスがテレビやパソコン、モバイルなどに拡散することで、同時間帯に同じコンテンツを送信する「サイマル放送」を特徴とする。この複線的なメディア環境は、ユーザーの受容態度において新たな視線を向けさせる。



新しい広告のカタチを提案したニコニコ動画は、地デジ放送の縮小図である。

どういうことか、もう少し具体的に解きほぐしてみよう。例えば『ニコニコ動画』は、小規模ながら新しい広告環境を創ってしまっている。見た目はほぼYouTubeと同じ動画サービスを提供しているようだが、ニコニコ動画ではその画面を覆い被せるようにコメントを残せたり、その動画に関連する商品を貼れたり、むろん商品からリンクをたどって購入することもできる。この特殊な市場では任天堂Wii』よりもマイクロソフトの『Xbox 360』の方が売れてしまったり、ある楽曲の歌詞の一部“going my way”と歌っているボーカルが、“ごまあえ”と聴こえることをネタにした商品リンクから「ごまあえの素」が爆発的に売れ、その状況をさらに視聴者がCGMでストーリー化することでまた再購買されたことで話題を呼んだ。*2

小さな規模ながら、ニコニコ動画は地デジが目指している地平線を先駆けており、購買経路さえも変えてしまった。そしてこの受容態度によって広告会社の制作方針は、揺れ動かされることになると筆者は考えている。



メタループ的読解による、メタコミュニケーションの必然性にどう立ち向かうか。

ニコニコ動画は日本独自のサービスながら、会員費とアフィリエイトで月間4000万円の利益収入があると言われている。そのようなケーススタディを発展させるであろう地デジの広告サービスを目の前にして、果たして2011年の広告会社は現在の4マスサービスを提供してい続けられるのだろうか。
受容態度が複雑化し不定形なものになるとは、極論すればどんな広告(メッセージ)がヒットするかは常に予想ができなくなるということだ。つまりクリエイティブ・コンシューマーの前で広告は不可測値であるから、テレビCMとアフィリエイト広告の効果は水平で対等になる、とさえ言えるだろう。
だがその一方で媒体価値の水平化は、同時に情報量の増大も意味している。地デジ放送は人々が作る他愛もないネタや欲望を吸い上げ、幾度となく止まないニーズに応えるマスカスタマーゼーションをインターネットよりも遥かに繰り返してしまうだろう。紙面の目的上、詳細は述べないがソフトバンク大和証券のようにメタ視点を先取りしたり、コマーサルの広告のように、CMの存在そのものをCMにする広告が増えている。これは情報量の増大が招いたクリエイターと業界意識の現れであり、アイロニカルな斜め読みをされないようにあらかじめ「この広告ってダメなんだけど、そこが面白いんだよ」との注釈を張っている。

この意識は、地デジがもたらすマルチチャンネル編成とサイマル放送、及びそこで扱われる商品陳列と取り交わされる会話(スレッド)によって加速整備されるだろう。メタループ的読解によって広告会社のクリエイティブは、メタコミュニケーションを前提とした上で創らざるを得なくなるのだ。



正しい情報がわからない世界だからこそ、正しい人が選んだ情報が恋しくなる。

マス広告が効かないと認められてしまった時代に、広告人が採るべき方針は、その逆に価値が低落したマス広告の重要性を認めることである。どういうことか。
そもそもマスメディアは、人と人との間で交わされる複雑な伝言や噂話を収斂し、有益な情報のみを単線的でわかりやすい物語=広告にしてフィードバックする機能があった。井戸端会議をまとめる議長のような役目である。意外なように思われるかもしれないが、社会システム論では「複雑性の縮減」という考え方で充当されているものだ。
これほどバリアフリーに情報が自由に取得できるようになったにも関わらず、私たちは有名人のご用達品やランキング、口コミリーダーの意見に耳を傾けてしまう。古代の印刷技術がそうであったように、マスメディアは近代社会において情報を敷衍させる役割を担ったが、再帰的かつ解離的なポスト近代社会でこれは、受容すべき情報を自分の代わりに選別してくれるという新たなポジショニングを担う。情報は無限だが、時間は有限であることを見据えれば当然の選択ではないだろうか。
知ってか知らずか東急エージェンシーは「ランキンランキン」という媒体を開発した。数多とある広告会社も強力なオピニオンの発生拠点(有識者とのネットワークなど)を持つべきであろうが、本論で語るには具体性に欠ける。この総論で語りえて一番簡単なのは例えばスポットCMの効力を信じ、有益なコンテンツでのポジショニングを恐れないことであろう。そのための理論整備とバイイングパワーが必要不可欠だ。
またクリエイティブコンシューマーにとって、CMスキップの可能性を回避するためにも、15秒は長すぎる恐れがある。15秒という尺数は電通の吉田秀雄が発明したが、彼を超える短さのショットガンスポットCMを開発してみるのも手であるが、やはりここで述べるにはアイデア先行でしかない。ともかく私たちがすべきことは、新しい消費者像を想定した新しい広告を用意することで、筆者は取り急ぎマスメディアの重要性を問うことにしたことだけ理解していただきたい。



情報の大波を無効にする、アフォーダンスメディアの可能性。

もうひとつ考えるべきは、クリエイティブ体制の認識転換である。これまでの視聴者が広告を通して商品情報を読もうとする自然主義的な読解をしていたとすれば、2011年以降の視聴者は広告制作の裏側を知っており、その意図も理解したうえで商品情報を切り捨てる構造分析的な読解をすると思われる。*3 そのひとつの解決策はアイロニーを乗り越えるメタコミュニケーションなクリエイティブを創ることだが、電通博報堂出身のクリエイティブエージェンシーたちが試みているこの戦術は、制作者と消費者の絶えまない いたちごっこを繰り返す。筆者が提案したいのは、メタな読みを許さない身体に訴えるアフォーダンスなメディアやクリエイティブの開発である。
仮に本論ではアフォーダンスメディアと名づけることにするが、その一例として挙げたいのが米国マクドナルドの椅子である。マクドナルドの椅子はわざと硬く仕上げているという。すると来店客はなんとなく座り心地の悪い椅子に気分を害し、そそくさと席を立ってしまう。すると店舗の回転率は上がり、客数も増える。*4
上の例は身体的な感性に訴えたものだが、聴覚的に訴えるアフォーダンスもあろう。いくつかの小売店では閉店前にドボルジャークの『家路』という交響曲を、夕方頃に閉店する小売店では『夕焼け小焼け』をBGMとして流しているが、これらは本質的な意味で通低している。あるいは視覚作用として店内のカラーリングを赤にすることで食欲増進をはかったり、奥の壁紙を鏡に張り替えることで敷地を広く見せるよう装飾することもアフォーダンスメディアの延長線上にあるだろう。
 「モノをより売ること」を至上命題とするのが広告だとすれば、このような環境操作さえも広告の新しい範疇として捉えてもよいのではないかと筆者は考える。すると私たちの仕事はコンサルティングや印刷会社にCRM業者、果ては総合商社とも競合することにもなろう。2011年の広告会社は熾烈な環境に身を置かされていると捉えるか、広告概念が拡張したことにチャンスを見出すかは、個人のモチベーション次第だ。 次項への続きは優秀な「コンテクスト・ディレクター」が誕生されることを待ちながら筆を置きたい。
 
 

*1:藤原 治『広告会社は変われるか−マスメディア依存体質からの脱却シナリオ』
   ダイヤモンド社、2007年2月

*2:ITmedia News『この速さなら買える!WiiよりXbox360が売れる「ニコニコ市場」』2007年8月
   http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0708/03/news029.html

*3:東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』講談社、2007年3月

*4:ジョージ・リッツァ『マクドナルド化される社会』早稲田大学出版部、1999年5月