49×偶有性/想像力の環境

日本広告学会に4月に開催された「クリエーティブを、学問する」と題したこのフォーラムで特に私が注目したのは、脳科学者の茂木健一郎が考察した“偶有性”に関する議論である。偶有性を辞書的に解説すると、ある出来事が引き起こった時にその原因と出来事の間にある因果関係には必然性がなく、他の結果でもありえた可能性という意味だ。簡単にいえば、何が起こるかわからない偶発的な出来事のことをそう呼ぶと考えて構わないだろう。
実際に茂木は偶有性を以下のように解釈している。Googleの検索は自分が欲しかった情報を的確に提示してくれる道具であるが、例えば検索結果の5番目くらいから表示される情報は、決して自分が期待している情報だけとは限らないことが多々ある。人はそこで自分の想像領域を超えた偶然の出会いをすることがある、という話だ。つまりGoogleは偶有性と必然性のバランスが絶妙であり、能動的に検索行動をしているユーザーに対して、サプライズと規則的定番の2つの情報を与えることで脳が喜ぶ構造になっているのだという(ドーパミンの二重の役割)。そして茂木は人間の情報欲を刺激する存在の代表格である広告クリエーティブは、もはやGoogleアルゴリズムに圧倒的に負けてしまっているのではないかと警鐘を鳴らす。

さて一方で、広告の新潮流と名指しされているアドバゲーム、ゲーム内広告、ブランデッドエンタテイメント、プロダクトプレースメントを見てみよう。こういった新しい広告の流れとGoogleには一見して共通した特徴がある。それはユーザーが欲望していない偶有的な情報を、コンテンツの消費行動中に潜ませているというところだ。
Googleは情報検索という行動の見返りに、探索者が欲しいものと関係のないものを混ぜこぜにした構造を採用している。アドバゲームではプレイヤーにゲームで遊ばせながら、企業メッセージや商品特性を内包させている。したがってGoogleとアドバゲームは、どちらも行動の中に必然性と偶有性の二重設計を織り交ぜるという視点から見ると、その特性上は似通っているように見える。そして数多のメディアプランナーはそのような広告の形を、ネットリテラシーの向上によってマス広告が崩壊した世界における希望の星として注力視し始めている。
しかしながらユーザーからの支持を眺めてもその差は歴然としていると言わざるを得ない。表面的には似せてもその本質はまったく意が異なるからだ。どういうことか。Googleの偶有性はユーザーから求められているが、アドバゲームの偶有性はプレイヤーから煙たがられている。言い換えればGoogleとアドバゲームでは、偶有性の質とユーザーの受容の環境が異なっているのだ。


この差を考察することはすなわち、Googleの隆盛と広告代理店の没落、マスメディアとインターネットの二項対立の意味を考えることに直結していく。『グーグルに勝つ広告モデル』『広告会社は変われるか ―マスメディア依存体質からの脱却― 』など数多くの著作でも示されているように広告業界の陣営は、検索連動広告のビジネスと無料アプリケーションの頒布によって世界最大の広告コングロマリットに変貌しつつあるGoogleといかにして対抗するか躍起になっている。だが茂木が示すように、Googleが考える広告のモデルは現代の消費者だけでなく認知心理学的に、すなわち人間の本能をどうやって喜ばせるかという発想に基づいている。対照的にアドバゲームやプロダクトプレースメントの発想は送り手側の論理に基づいている。

広告を半透明な存在に仕立てることで消費者に半ば強制的に視認させようとする試みを、理論社会学者の北田暁大は「広告の幽霊化」と形容している[北田、2002]。サブリミナルな広告の幽霊は確かに、ターゲットに企業メッセージを伝えているつもりになっているが、ユーザーに好きになってもらうという視点には立ってはいない。その証左として矢野経済研究所の統計ではプロダクトプレースメントに嫌悪感を示すユーザーは約4割にも上ると危惧を表している[矢野経済研究所、2005]。対してGoogleの設計ポリシーでは、ユーザーが求めていることを提供するのが広告の機能であり、ユーザーを楽しませるのは非広告、つまり純粋なコンテンツとして機能させようとする。広告代理店が考えているのはその“融解”であり、Googleのモデルはその“分離”だと言ってもよい。

融解は忌み嫌われ、分離は好まれる。このように捉えると従来も今も広告モデルは分離であったことに気づかされるが、ハードディスクレコーダーの登場、Webアプリケーション技術の進歩が象徴するように、広告が伝えたい機能的なメッセージはユーザーによって排除されてしまう受容環境が急速に整備されつつある。だからこそ広告人は融解のモデルに一途の望みを託しているが、本論で喝破したように幽霊広告は逆効果ではないかという世論も噴出している。では新しい広告はどのような形なら消費者の心に届くか、に根差した提案はいまだ確立されていない。


クリエーティブ・フォーラムにて東京富士大学の山川悟教授が講演した「コミュニケーションと物語性」では、その状況を打破するための可能性が示唆されており興味深い(ただし講演では本論で解説した問題意識は語られてなく、ひとつの方法論として提示されている)。山川の考えを要約すれば、消費者の想像するイメージや認知構造を下敷きにし、消費の文脈に適合した形で広告を配置すれば受容されるというものだ。つまり広告の機能的メッセージはそのままでも、メッセージと結び付きの強いコンタクトポイントがあればコミュニケートされるのではないかという一種のクリエーティブエンゲージメント論の変奏だ。

人間の想像力に準拠した上で広告を配置する。これをメディアエンゲージメント論の射程で見ているのが、7月号に掲載しているクレア・スペンサーによるマルチ・チャネル・キャンペーンに関しての寄稿だ。当論では英国で代表的なキャンペーンを参照しながら、1980年代ではメディア使用数は平均して2つであったのに比べ、2000年代には5つに増加していること。とはいえ人は全ての膨大な情報を処理できないために、典型的なキャンペーンなら3つのメディア使用数が最適である場合が多いことを指摘している。この寄稿でユニークなのは、数あるメディアの中で最も重要視すべきなのはTVとエディトリアル・カバレッジ(PR)だという主張だ。本文を引用すると、「広告メッセージを『信じる理由がある』場合、エディトリアル・カバレッジが、十分に広範囲かつ高頻度で行き届いていればTVの引き立て役(foil)として機能するからだ」と記している。本論の用語法に換言すれば、広告が語っている商品の機能性が消費者にとって有益であるのなら、PRのメディア特性上それは拡大増殖し、TVスポットは認知心理学的なコミュニケーションができるのだといえる。

選択可能情報量が増大した今日においては、まったく新しい情報を供ずるよりも、すでに相手が知っていること、関心があることを前提に情報を組み立てたほうが得策であることは、Googleだけではなく広告業界内でも一部で内破されている。この視座に立った上で広告の有用性がもっと議論されることを個人的に望んでいる。