50×顕在記憶から潜在記憶へ

熱力学にエントロピーという概念がある。これは情報理論でも使われいて、似非科学的な解釈の中では情報量=エントロピーという解釈がある。例えば大前提としてコミュニケーションAとBとCはそれぞれ、人に与える情報量が異なっている。Aは物質的にまったく変わらないけど、そこに時間や空間や偶然性の概念を与えたら情報量が変わってしまうことがある。例えばAを何度も見せてたら情報量がむしろ減っていくが(飽きてしまう)。すごく希少性があるように見せれば情報量が大きくなる(びっくりする)。
ところでなぜこのような発想を私はしなければならないのか。人間には蓄積情報量の限界があるからだ。その上でコミュニケーションを考えるべき時代になっている。


コミュニケーションの未来を考える上でもうひとつ、捉えておきたいのは物理学で議論されてきた決定論だ。決定論とはあらゆる決定項は因果律に倣っているとする立場のこと。つまり結果には原因が必ずあるよってことだ。
広告論に置き換えて考えてみよう。あらゆる判断の現場、つまり広告的にいえば消費の瞬間には、選択が生じている。だがこの選択には、実はある不可視の権力が働くことがある。具体的な権力のひとつに広告が存在しているわけだけど、最近これが機能しなくなったから権力者=マスコミは慌てているわけだ。

では広告の権力が消滅したからといって、消費の選択は自由になったといえるだろうか。私はより不自由さが増したと思っている。認知心理学下條信輔は『<意識>とは何だろうか』の中で、「人間が自由を感じるのは何も考えていないとき、すなわち環境のいいように操作されているときだ」と述べており、意志決定論の本質を得ている。

「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤 (講談社現代新書)

「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤 (講談社現代新書)

インターネット社会を表層的にみれば、ある程度、自由意志が生まれているかのように見えるだろう。だがそこでは、もっと深い、潜在認知下での権力が動作しているのではないか。私はそれを感性工学的な表現と呼ぶことにしている。

多少なりとも賢い人間は、広告の権力性を暴いたように、その潜在意識的権力も暴いていくかもしれない。だがそいつはある事象における裏側のネタを暴いている一方で、ベタな表現には意外と動かされてしまうこともあるんじゃないだろうか。エリートはすべての事象において正しい判断をするわけでなく、庶民レベル(ベタ)の判断では、女子高生にバカにされることがあるように。


話を本筋に戻そう。下條は、人間が情報を蓄積するのには、顕在認知過程と潜在認知過程の2つがあるという。顕在認知の視点でいうと、効果の高いコミュニケーションの手法のひとつとして、プライミング(思考の呼び水)効果があるという。被験者に「医者」という単語を事前に教えているのと教えていないのでは、直後に発生する関連情報への処理速度は異なるという理屈だ。教えている被験者は「看護婦」という単語にスピーディーに反応しやすくなるという実験結果を得られたという。これは私の用語法でいうと、環境分析的表現と接ぎ木している発想である。
どういうことか。私にはあらかじめ消費者が知っていることをベースにした上で表現を組み立てておき、さらに重要な投下の直前にその伏線をめぐらせておく方が効果的だという話に聞こえている。AIDMAやAISASは消費行動をA(Attention=注意)から始めているが、もはやI(Interest=興味)から始まるモデルが基本形となっていくだろう。具体例で考えてみても、戦略PRで下地を整え、テレビCMで空爆を落とすというコンビネーションが最も効果的なプロモーションであることは多くの実務者が体感しつつあることだ。英国で行われたメディアエンゲージメントの調査でも同様の指摘がなされたばかりである。

人間の蓄積可能な情報量を考えるともはや顕在記憶だけでも、もうすぐ目盛りいっぱいになる。だから潜在記憶に訴えるほうが効果的な時代はもうやってくるという主張も一方で存在している。その主張に私も同意している。どちらもコミュニケーションとして有効ではあるが、顕在記憶から潜在記憶への移行はゆるやかに推移していくだろう。あらゆる広告の学者はニューロマーケティングの前で立ち竦むのだろう。

いずれにせよコミュニケーションの処理場において、人間の自由意志は発生していない。だからコミュニケーションの送り手としては、自由意志は演出すべきである、というのが結論で、広告を企業と消費者で一緒に創るうんぬんの陳腐化されたWeb 2.0的な話をいまだにしてる奴は欺瞞である、というのが現在の私の立場だ。