マクルーハン再考2

メディアがメディアたる理由が消失しつつある今日において、メディアに代替するものは登場する可能性はあるのだろうか。ヒンメルワイトによるメディアの代替過程によると、新しいメディアは既存のメディアの使用状況を変えてしまうと説いた。では最も既存メディアに影響を与えているのは何かというと、2000年代にインターネットがメディア化し、これからインターネットも既存メディアとして分類されていく状況では、コンテンツが既存メディアのあり方を変えていってしまうだろう。そのような読み方をすれば、コンテンツこそがメディアであるという立論もしやすいのではないか。「メディアとはメッセージである」と煽ったマクルーハンの逆方向への進路であるところが面白い。
そこでこれからの広告代理店が獲得すべき新しいメディアとは何かという問題系が浮上する。現在、コミュニケーションデザインの考え方は広告プランニングの保守本流になりつつあるが、その発想には方法論がない。丁寧にこの商品にとって、本当の本当に無駄のない、手段を選ばない超必要な宣伝とはなにか考える。これだけである。だから誰でもできる。そうするとメソッドと呼べないから、企業としてのビジネスドメインになりにくい。だから今、広告人はまたしてもメディアという発想からコミュニケーションデザインを考えている。私もそうだ。クライアントは確定性を要求している。思いやり診療だけど治るかどうかわからない医者よりも、最先端技術で治る確率を高めている大学病院で診察してもらいたいのがマスボリュームである。*1

さて、現在最も有力に言われているのは、上記で分析したようにコンテンツこそメディアであるという立場だ。コンテンツ至上主義と言ってもよい。朝日新聞で小さな話題を大きなスペースで取り上げるより、くだらない重箱の隅をつつく、しかし掘り下げの深いネタをブログで置いとくだけでブックマークが加速化し、ニュースポータルに掲載されることの方がメディアの本質に近い。私の嫌いな鈴木謙介による『カーニヴァルする社会』はそういう本だろう。
最近はネットワークじゃないか、という意見も耳にする機会が出てきた。つまり商品Aを薦めてくれる有名人を引っ張りだすのはメディアの機能であるが、その有名人と有名人をつないでいってコラボレーションの化学反応を意図的に発生させる機能だ。その網こそをメディアと呼ぼうではないかという動きもある。コンテンツにせよコラボレーションネットワークにせよ、どうやってそれを確定できる基盤を整備するのかが次のステップだ。

私の個人的な思いつきをメモしておくと、間主観性をメディア化することはできないか考えている。人の主観と主観の間にある潜在同期の無意識である間主観性を、どの企業よりもいち早く、確かに抑えることができればこれはメディアになるはずだ。例えば「コアリズム」はコンテンツで、「女芸人の間で流行っている」という状況はコラボレーションネットワークだとすると、「周りは痩せないけど私だけが痩せる」という願いは間主観性なのである。ここで注意しておきたいのはインサイト間主観性は似ているようで違う。インサイトは「楽しくヘルシーに痩せてくびれたい」という想いである。間主観性は極めて個人的で、しかし共同体を形成することができて、かつ強烈な願いのことを指す。宗教家の声明みたいなものだ。強烈であるからこそ、その回答を授ければその見返りとしての購買力は桁外れになる。だからこそフロイトユングをもう一度、読み返さなければならないだろう。ひょっとして吉本隆明とかも重要なのかな。
 

*1:いちおう断っておくけど私が話しているテーマは俗っぽい各論に過ぎないことはわかっている。でもビジネスってのは結局、各論と保証を求められるんだから、可能な限りその現場の最先端にいる身としては俗物を作らなければならないと感じてるんだ。だってみんな本質が大事だ。コンセプトが命だとか言ったところで、じゃあ誰がアウトプットの責任を担うんだ。誰が約束をするんだ。エンドユーザーから逃げちゃいけない。