57+17×ソーシャルタギング2

第1回目のエントリで筆者は、広告制作においてコピーライティングとプランニングの水準はタギングに移行されてゆくと記した。この変化を哲学的にいえば確定記述から固有名詞の優位性へ推移したと分析できるだろう。
どういうことか。例えばクライアントがラーメン屋であった場合、私たちはまずこのラーメン屋のどこが魅力的かを分析する作業から始めていた。「スープにマグロ節を使っている」ことが特徴だと見出したとすると、コピーは「マグロの旨味が舌で暴走する」など、事実に主観性を混ぜたメッセージを書くのが基本形となる。そしてコピーから連想されるビジュアル、例えば大間のマグロを撮影し、荒波を撮影し、広告の素材として原稿に配置してゆくだろう。これまでの広告表現では、USPに立脚したコピーとそれをより象徴化したビジュアルの構成によって表現が成立してきたのである。
だがタギングの制作過程では、そのプロセスが大きく異なる。1つの情報(コンテンツ)に対しあらゆる立場の人が多様なタグを付与することで、内発する意味さえ変容していくタギングの作法においては、いかにして商品にタグが付与され、どのようなタグがユーザーによって与えられるかという予測力こそがコピーライティングの肝要となる。つまり「マグロ節」というUSPはタグの一つに過ぎないため、社会環境によって見過ごされる可能性がある。だから凡庸だとしても「低加水の麺」「直前に焼くチャーシュー」「小鍋で温めて提供するスープ」といった他の固有名を含んだ特徴も記述しなければならない。
Web2.0とは何か一言で言うならば、サプライヤーとコンシューマーの間に横たわる情報の非対称性が解体されるということである。ソーシャルタギングの世界でもまた同様に、制作者が想像もしなかった解釈がユーザーの手によって描かれてしまうという事態が生じている。ニコニコ動画で記述されるタグは、一次コンテンツとは乖離した不可解な意味を持っているが、いわゆる「タグ戦争」と呼ばれるように、より多くのタグが付与されるコンテンツはそれだけの訴求力を内在していることの証左となり、かつその現象は増幅する。つまりより多くのタグを持ったコンテンツはそれだけユーザーが侵入する入り口が多くなり、普遍的なタグであれば検索の上位にも上がりやすいことになる。

プラトンは、ソクラテスの弟子でアリストテレスの師匠であり、アカデメイアを開設した哲学者である」という文章があった場合、これまでのコピーライティングは「ソクラテスアリストテレスの間をつなぐ人」とか「アカデメイアを開設した偉大な人物」といった確定記述を重視した。だが左記の述語は必ずしも事実性を伝えていないため(歴史の真実はまったく違う可能性がある)確定記述の束は固有名詞に還元できない。だが「プラトン」という固有名詞はあらゆる確定記述を排出することができる。「ハゲwwwww」「ラファエロの絵でFUCKしてるよね」といった想定外の(ユーザー視点の)記述が搬出するかもしれない。この作用は広告表現論として有効と捉えるべきだ。

次回、タギングの作法は、キーワードの書き方とどう違うのか。またどのようにコンテンツにタグを付与した状態のままでサプライヤーとして送信できるのか。またあるいは制作者として意味を勝手に付与される創造の環境に、クリエイターはどのように“抵抗”できるのかを考えたい。