マクルーハン再考1

明らかにマーシャル・マクルーハンの意義を振り返る人が増えている。学識者はもちろん産業人も参照している。これはなぜか。私はメディア論はそれこそマクルーハン程度しか触っていない体たらくだが、コミュニケーション論を語るうえでマクルーハンは欠かせない。彼はテレビによって地球は一つの思想で染色される「グローバル・ビレッジ」を夢想したが、その夢はインターネットがローカル・ビレッジの集合体という形になって具現された。思想の通奏低音のせいか、多くのネット論者はマクルーハンからの引用が目立つ。
さて、私がとりわけ注目しているのは「メディアはメッセージである」というあまりに有名な宣言だ。これは極論すると「メッセージはメッセージ(コンテンツ)ではない」と意味している。
マクルーハン流のメディア論について想定される批判はこうだ。「媒体はしょせん道具だ」「一番大事なのは内容だ」とよく語られることだろう。だがこの感性は間違っている。あらゆる言明や行為主体は、メディア環境に大きく規定されてしまう。例えば私たちが使っているキーボードはQWERTY配列と呼ばれているが(キーボードの左上から順に英字を並べるとQWERTYになっている)、この配列法は科学的な論拠があったわけではなく、企業同士の恣意や歴史のタイミングによって規定されている。そして私たちは無根拠なメディアによってメッセージを生産しているが、このようなデファクトスタンダードの環境をもし改変することができたとしたら、あらゆるコンテンツやメッセージは様相を変えるだろう。コンテンツとメディアが融解していく時代の射程に、マクルーハンの理解がある。
逆に現在のコンテンツはメディア化している。メディアの数が飽和すると人はアイデアを生み出し、そのアイデアを空間化したものをメディアへと変換するものだ。2009年2月に発売される「龍が如く3」はゲームに登場するシチュエーションをほとんど企業タイアップで演出しているが、これはアクションゲームのシナリオが人々に受け入れられ、表象であるにも関わらず人が集客されてしまったことによってメディア化されたという実例である。これからは宗教家の声明やオピニオンリーダーの発言など、表象化されていないメッセージでさえもメディア化される現象が起こってくるだろう。なぜなら現代におけるメディアの定義とは、メッセージを伝達する媒介物ではなくて、人が集客され、共振し合う状況こそをメディアと呼びつつあるからだ。

マクルーハン理論―電子メディアの可能性 (平凡社ライブラリー)

マクルーハン理論―電子メディアの可能性 (平凡社ライブラリー)

龍が如く3

龍が如く3