糸井重里と約束2

発話はパフォーマティブ(行為遂行的)なものとコンスタティブ(事実確認的)なものに分かれている。例えば雑誌をパラパラとめくっている時に、Aくんが「このページは広告である」と発言したとする。これはコンスタティブな発話である。なぜか。そのページが広告かそうでないかをページにノンブルが振っているかどうかを確認することで判別することができるからだ。つまりコンスタティブとは、是か否かを問うことができる発話の行為を指している。

しかしノンブルが振られていないページに対してAくんが「このページは広告である」と言った場合はどうだろうか。この発話を仮に是とした場合、意味は2つに分かれる。この雑誌は広告にノンブルを付けないローカル誌であるという意味と、これは記事体広告なんだという意味が考えられる。あるいは隠喩を含めている可能性もある。あらゆる雑誌の体制はもはやスポンサーの資金援助なしには成立し得ないんだという意味かもしれない。このように発話を生活環境や文脈に置くと、発話行為は常にパフォーマティブに発動してしまう側面が見て取れるだろう。
あらゆる言語はパフォーマティブな還元を余儀なくされる。広告表現におけるコピーもまた、パフォーマティブである存在性から逃れられない。しかしながら糸井重里は“約束”という概念を用いて、広告が持つパフォーマティブな記述性から抵抗を試みているのではないか。

糸井はこう語る。コピーとは約束をしなければならない。しかもその約束は必ず守らなければならない言語体系であるが故に、守れない約束はしてはならない、と言う。つまりコピーがいかにパフォーマティブに機能しても、コンスタティブに機能する側面においては約束を守らなければならないと考えている。どういうことか。


例えば「このボールペンはスラスラ文字が書けます」「このボールペンは見た目がすごくかわいいです」という発話は、通常の感覚で言えばパフォーマティブなものでしかない。なぜなら「スラスラ書ける」「かわいい」という発話には、事実を検証するには多義性が含まれすぎるからだ。どの程度に滑らかで鉛の芯が解けていくのか。老若男女すべてにかわいいと感じてもらえるのか。そもそも是非で分けられる命題になりえない。だが「スラスラ書ける」「かわいい」と感じてくれる人が多い場合、この発話は広告としての是として、コンスタティブな読み方が可能になる。糸井は商品の本姓を見極め、守れる約束の限度も見計らわれるべきであり、守れない約束≒コピーは書いてはならないと考えている。

この糸井の態度は、どうしてもパフォーマティブな立場に置かれざるを得ないコピーあるいは発話行為が、どうすればコンスタティブに読まれるのかを問う作業であると筆者は捉えている。そして広告におけるコンスタティブな表現はいかにして可能なのか、糸井の実践にヒントが隠されているように思う。広告は喧伝(盛んに言いふらすこと)である時代は過ぎ去り、かといって契約する時代と言うにはおこがましい。送り手によるできる限りのコンスタティブなコピーと、受け手の解釈と許容によって交わされる“約束”にこそポスト情報産業時代の広告像がある。
「広告とは約束である」と定義してみると、広告とコミュニケーションとの違いも明確になる。近年、広告とコミュニケーションの壁が曖昧になってしまったがためにコミュニケーションデザイナーという役職が業界内で繁殖しているが、彼らが提唱するコミュニケーションとやらに送り手と受け手の間に約束が交わされているかどうかをチェックすればよい。約束が取り交わされていない言語は単なるコミュニケーションであり、取り交わされていれば広告として認定できるだろう。そしてコミュニケーションデザイナーたちは、そのどちらを志向しているのかがこれから問われることになる。