伝達の不確実性によって生じる人間の想像力

部屋を掃除していたら、高校生の時に書いた小論の文集が出てきた。もう10年前になる。たくさんあって恥ずかしい文章ばかりだが、下記に転用するものは、おお、我ながらかなり鋭い視点じゃないかと思ったので採録してみる。誤配とか郵便性とかMAD的空間とか、現代における表現とは何か、射程を見通している。昔から私のアイデアの路線ってのは変わっていないんだな。「芸術という絶対表現への不信感」。これがすべての基盤になっているんだろう。今では美術作家を参照する機会がずいぶん減ってしまったように、村上隆が訴えるように、確かに芸術の自明性はどこかへ消失してしまったように感じる。

伝達の不確実性によって生じる人間の想像力
 現代において人が表現、もしくは創造する際にメディアが自己と他者との仲介役を担っている限り、他者への意思の伝達が不可分な状態になってしまうという問題がしばしば多方面の分野で論じられることがある。それは資料2で述べられている、言葉を発することで起こる二者間での解釈の相違、という主題に顕著に示されている。
 つまり「伝達の不確実性」ということこそが、表現行為とメディアの関係において生じる重要な問題点のひとつなのである。だがそれは否定的に考える問題ではなく、むしろ私にとってそれは人間の豊かで広大な「想像力」が顕在化したものだと思えるのである。
 資料4のキース・ヘリングの絵は、そのテーマである「権力」だとか「未知」などのイメージにその本質がある。そしてヘリングの絵では、その意味を人々に伝えることに、表現することの本来の意義がある。しかし現状ではむしろ彼の簡略化されたドローイングで描かれた、二次元絵画の単純明快さのために、個人の「想像力」によって自由な解釈がされることが非常に多いといえるのではないか。
 同じことは資料1でも言える。クレーの「線」というメディアは無限の可能性を秘めていて、「線」は主体的にエネルギーを発生するとここでは述べているが、そのエネルギーとは取りも直さず、人間の「想像力」が母胎となっていると言ってよい。なぜなら「線」が訴えることも最終的には、他者の「想像力」による様々な価値観で捉えられ、徹底的に噛み砕かれるからである。
 またその「想像力」は内面的で独創的なものであるために、メディアの可能性、意図された表現行為の限界を突き破ることができるのである。例えばそれは資料3の歌川広重の絵を異国の詩人が極めて主観的な視線で見つめていることに明確に現れている。元々は江戸の大衆メディアである浮世絵は、今でいう新聞か漫画のようなもので、この詩人のような美的な見方をする者は皆無に等しかった。だが現在では人間の「想像力」のために、浮世絵の独特な雰囲気はどんな解釈も許容される。とすれば、その人たちのイメージを受け入れられるという意味で、明らかに浮世絵というメディアの限界を越えていると言えるだろう。
 つまり表現行為とメディアの関係における「伝達の不確実性」という問題は、少なくとも芸術などの創造的な造形活動においては、伝達によって人間の「想像力」の豊かさを喚起させるものだと考え得ることができるのだ。