2×あえて

青山ブックセンターで行われた北田暁大×東浩紀のトークショーを聴講した。
『嗤う日本の「ナショナリズム」』刊行記念と題されたトークショーであったが、あまりその内容のディティールに触れることはなかった。細部に踏み込む前に、共に71年生まれであるにも関わらず、彼らの認識にはズレが生じてしまっていたからだ。

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

まず北田は、あとがきにも記さなかった『嗤う日本の「ナショナリズム」』の執筆動機を明らかにした。いわく、東浩紀から発した笠井潔への手紙に、笠井が返信して答える往復書簡の形式でつづった『動物化する世界の中で』に衝撃を受けたからだ、と告白する。

動物化する世界の中で』は東の著作の中でもっとも風評の悪いのは、笠井と東の議論は平行線のまま、まったく噛み合ってないからだ。そのズレは団塊世代団塊ジュニアの世代間闘争ではなく、思想家としての選択の帰結だったと東は訴えるようだ。そして北田は、むしろ笠井的なポジショニング=連合赤軍サブカルチャーを直結させつつ、人はメタレベルを絶えず希求する欲求に追われていることを主張した。


笠井や北田、はたまた社会学者の大澤真幸を「否定神学者」と一掃する東は、あくまで95年に「断絶」の境目を見る。北田も著書のなかで確かに「断絶」という言葉を東と同じ文脈で使っているし、その振る舞いは東の後追いだと揶揄されても仕方ないほど、通底した問題意識だ。にも関わらず東は北田の「断絶」を無視し、批判する。

はてなダイアリーのあるエントリで、『嗤う日本の「ナショナリズム」』を的確に書評した記述があったそうだ。そのブログでは、連赤を取り上げる第1章は「リアル社会と物語の分析」であり、スノビズム漂う80年代の第2章と第3章は「言説の分析」。2ちゃんねるを中心とする第4章は「コミュニケーションとメディア分析」なのだという。北田も東もこの語り口にかぶりを縦に振る。

東はいう。「時代区分によって語りうる素材と方法論が変容している。ゆえに事象を押し並べて語り、串を指すことがもはや不可能なのだ。」


その意味を北田は極めて真摯的に受け止めている。ようだが、北田はそこで「あえて」の戦略を持ちだしたがる。つまり60年代と90年代の問題系を乖離させると、60年代が神秘化(特権化)してしまう。だから「あえて」その政治性を非政治的なサブカルチャーに接合させるという。北田の用語法でいえば、ベタな思考(=90年代的ケータイコミュニケーション)に留まればベタだけに在住し、繋がりの社会性にて世界は覆われる。必要なのはメタレベルの視線と、そのバランスなのである。


対して東は楽観的であり、かつ悲観的でもある。恐らく東は『郵便的不安たち』を上梓した時は、北田のような超越論性にこだわっていただろう。だが動物化という用語を用いだした頃から彼は、ある種の諦操感を身に付けたように思う。

哲学は哲学を否定することで哲学となる、と誰かが言ったが、アクチュアリティばかりが羨望される即物的な世界では、メタ批評性は早々に撤退し、その代替となるのはオブジェクトレベルとメタレベルを往復する北田や大澤、宮台真司のような社会学者ばかりなわけだ。


そういえばトークショーが終わった後、聴講側に隠れて宮台がいたので驚いた。マイクを渡した途端、散弾銃かのごとく反論を飛ばしていた。色黒で小太りした、エネルギッシュなおじさんだったなぁ。