2×80年代

とある寄稿論文の審査員をしている方に直接聞いたのだが、ここ数年、若手が送ってくるの論文はどれもITやネットがらみの話ばかりらしい。とはいえ団塊世代にはちょっと食傷気味にうつるテーマも、住めば都か、受賞作は軒並み情報学系の横文字をつけたタイトルが半ば常識化しつつある。

新聞やニュース、文芸誌・商業誌を読んでも、ブログとソーシャルネットワークに関する解説やケーススタディが跋扈している。ITベンチャーの企業家が語る暴言は、頼みもしないのにマスコミとマスコミが用意する体制派の学究により援護射撃され、宙吊りにされる。


また上記のような直球でなくとも、流布されたネット観を暗示するものもある(糸井重里『インターネット的』etc)。ついこの間まで電車にのっていたら、隣の青年はやたらと2ちゃんねるの話をしていたが、最近めっきり耳にすることがなくなった。気のせいでないとすれば、それは新しい概念が浸透しきったことの証左なのかもしれない。

日本においてはどれだけ早く見積もっても、Windows95が発売された1995年を境に、わずか10年しかインターネットの歴史は築かれていない。ブロードバンド元年である2000年で算出すれば、たったの5年だ。なぜインターネット的言説は かくも私たちの潜在意識に根差すことができたのか。これがぼくの至って単純な問いかけだ。

サブカルチャー性に富んだ内容にも関わらず、大手書店で平積みされている北田曉大『嗤う日本の「ナショナリズム」』を読むと、ぼくの問題に対する遠回しな回答が記されている気がした。極論すれば00年代のインターネット的言説は、すなわち80年代的言説に接続されているからこそ、容易に拡大しえたのである。
文学上ではポストモダニズムと呼ばれ、政治学的にいえばネオリベラリズム社会学的にはアイロニズムと名指しされるであろう数十年前の言説たちは、00年代でようやく具象化され、形式主義化(フォルマリズム)されたのではないか。そう思う。

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)