4×意味と流通

論文の授賞式に出席してきました。

有名人がちらほらいて、なんともセレブな空間です。東京會舘といえば、学生のころ毎週アルバイトで通っていた懐かしい会場でして、踊るセレブを足場から見下げて「けっ、わしには一生関係ないもんね」と妙にすねていたものでした。状況が変われば、ポジションも入れ替わってしまうものだ、と感慨深いものがありました。いや、セレブになったわけじゃないですけど。

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それにしてもアカデミック過ぎることを嫌い、実務に生かせる論述を応募者に求めているのに、その見返りが応募作をまとめた薄ぺラの冊子ひとつの発行で、流通は業界内のみ。というのはどうも矛盾しているような気がします。

シンクタンクは難解な思考作業をジャーナリスティックな流通経路で換言し、あるいはアーカイブで公開しています。大学の紀要論文でさえ、意外と数多くの大学間で配達されています。それに比べ、この業界はすでに余り有るスキームを抱えた大手数社がマーケットと言説を占有しています。大手に属さない圧倒的多数の人々、つまり即物的・反射的対処が急務とされるレゾンデートルを背負う実務家たちに手紙を届けるためには、論述のアウトプットとチャネルは多角化する必要があります。この状況では一般人は目にしないのはもちろん、業界内でさえ声は共鳴されないでしょう。今回のような形式の論文は、本来ジャーナリスティックな伝わりやすさを徹底するべきで、半端にアカデミズムの戯れには馴染んではいけないはずです。

かといって実は、ぼくは個人的にまったく逆の嗜好を好みます。高校生の頃から抱える問題意識にムリヤリ接ぎ木するようですが、ぼくは「物事を自分の声で語る」こと。もっといえば「わかりやすいこと」にどれほどの意味があるのだろうか、甚だ疑問を感じるのです。それより論述とはまず、理論の強度を突きつめ続け、それが意味のある言説ならジャーナリスティックな流通を試みればよいと考えます。一定の強度を保てない言葉はシンプルに吐き捨てればよいだけでしょう。