4×人間の条件

「樹海な犬たち」をマイナーチェンジした。自分が関わっている周辺すべてをまとめたポータルになっている。ではどのように変えたのか。
樹海には、いぬ、とり、ねこという3つの動物が棲息している。私は人間を語るにはひとつの側面では言うに及ばず、両面性どころか三面性くらいでもってやっとこさだと思っている。むろんこれはハンナ・アレント『人間の条件』が定義した、活動 action、仕事 work、労働 labor という活動的生活(ヴィタ・アクティーヴァ)に影響された考えで、いぬ、とり、ねこはそれぞれに照応している。

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

私たちは労働と仕事をあまり厳密に区別していないが、それぞれが生み出す生産物を比べれば違いがわかる。労働は耐久性のない消費物を作り出し、仕事は消費に抵抗し、世界観を作り出す。私にとっての労働は「ねこ」で報告されている。つまりどうでもいいこと、意味のないこと、一日の大半を費やしている労働の愚痴のこと。そして仕事は「とり」に任せており、ここでは私と世界が有機的な意味を紡いでいる、ラーメンに関しての報告がなされている。つまり私がラーメンについて語ることは、私にしかできない貢献なのだ。労働は誰でもできる。そのように単純に理解しておこう。


そしてアレントが最も価値の高いとした活動、「物あるいは事柄の介入なしに直接人と人との間で行われる唯一の活動力」こそ、「いぬ」として語るようにしている。活動は私が本当に好きなこと、やりたいことを考え行い、なおかつ社会に貢献できることを語っている。その意味で労働と仕事の中間にあるものが活動と考えてよい。だから形式として、ねこはミクシイ(私的領域)、とりは一般的なブログ(社会的領域)、いぬははてなブログ(公的領域)に置いた。

ご存知のように、いま世界は私的領域で覆い隠されようとしている。私は自らの言論や行為によって、公的領域を生成したいと望んでいる。ほっておいたら自分自身が私的領域にとじこもろう、はっきり言ってしまえば、ミクシイで日常のルーティンだけで戯れたがろうとしてしまいがちになる。そのような欲望は人間を動物のままに貶める。私はいぬだ。だが本当は、樹海で苦しみながらも、人間になりたい、いぬなんだ。