35×コンテクスト・ディレクター

最近の仕事は、クリエイティブまで侵入せざるをえない案件が増えている。ストラテジックな解決は、結果として広告出稿を必要とするため当然である。しかしここでやっかいなのは、ストプラがクリエイティブを考えていいのか、という問題系である。

私はコピーライターによる言葉の詐術と、アートディレクターによる霊感の降臨は、大変に尊いものだと思っている。だから自分でクリエイティブな「提案」はしても「判断」はしない。たとえその判断が間違っているのではないか、と疑ってもその判断を重んじることさえある。凡人による左脳の積み重ねは時として大変な過ちを犯すが、優れた人間による霊感や直感はあながち外れることはないからである。だから私は最後のディレクション作業まで面倒みたい気持ちを抑えて、甘んじてブリーフをクリエイター各位に授け、お任せしたい。

だが近年の広告予算の縮小や競合率の高まり、発想やアイデアの無理解、つまりクリエイティブへの価値を認めないクライアントやスタッフが頻出してきている。正確にいえば、自分でもそのくらいの発想はできるから自分でやってしまったほうが早い、と思う者によく出会う。そのせいで専門職でない門外漢がクリエイティブ領域に侵食するという事態が起こってしまう。
「なんかおもしろいアイデアないから、もう自分で絵コンテつくっちゃったよ」
「制作会社の案と一緒に出したけど、自分のコピーが採用になったなぁ」
「このバックの色はもっと明るくしたほうがいいっすよね、すぐできますから!」

情報技術は人を賢くもすればバカにもする、とはよく言ったもので、モノを発明するという行為が軽んじられてはいまいか。確かに表面上は世にあるアウトプットとよく似通っている。だがそれはすでに現出しているものの二番煎じに過ぎない。クリエイションとはモノが置かれる環境を見据えたうえで、その環境にどう住まうか身を委ねる行為であり、時として環境そのものを創出する行為なのだ。

レッドオーシャン市場の戦いからブルーオーシャン市場への脱出へ。そこまで議論が進むと、ストプラはクリエイティブを産み出してよいのかどうか考えることが可能になる。クリエイティブはもはやモノ単体だけを想像するというより、全体論的な環境を創造する領域まで踏み出している。それはストラテジックプランナーの領域である。したがってクリエイティブの全体操作はストプラが関与すべき、という結論が導き出せるが、肝心のストプラはやはりAEとクリエイティブ、マーケティングを架橋できる人間でなければならず、とりわけアートディレクションの技法に精通しているものが相応しい。その感性は熟練の経験あるいは抜きん出たセンスが必要で、下手にクリエイター気取りの輩ではまったくダメである。政治的事情(営業戦略)を基盤としたアイデアから、その解決策(メディアプランニング)と手触り感(CRディレクション)の残存まで、入り乱れた文脈を一気通貫して読み取り、理想図を描くことができるコンテクスト・ディレクターの存在が急務とされている。

そのような存在は欧米欧州ではもはや当たり前(アートディレクターが全体統括し、経営者にもなりえる)だが、日本ではまだまだ少ない。言うなれば大貫卓也佐藤可士和原研哉などはコンテクスト・ディレクターに該当するだろう。彼らのような役割がさらに増えればストプラはお役御免となり職を奪われるかもしれないが、そのような右脳偏重社会ではふたたび左脳が渇望され、マーケターが求められるだろう。80年代はそんな時代だった。個人的には言葉のほうがけっこう好きなので、そんなうわっつらの社会のほうが楽しかったりもする。