37×コンテクスト・ディレクター2

過日のエントリーで筆者は、アートディレクションの手触りを技能として携えながらも、ポリティクスかつ戦略的な思考法ができる存在をコンテクスト・ディレクターと名付け、いま最も求められている職能だと述べた。これは前々から議題として掲出している感性工学やアフォーダンスをコミュニケーション理論に援用していく議論の延長線上に接木されている。しかし実務論としては本来、語り合うほどの余地はないかもしれない。欧米や欧州のクリエイティブブティックはストラテジックプランニングとROIを下敷きにしながらクリエイティブを設計するという。彼らに比べると日本のクリエイターは論理的な思考フローにかなり無頓着なのだ。組織論や財務諸表を読めない、セカンドライフなど新たなサイバースペースの意義を理解しようとしないものは今後淘汰されてしかるべきではないか。
より具体的に考えてみよう。例えばCMの世界では高額のギャランティを払って好感度を求める「タレント広告」は、安易な逃げ道あるいは発想の放棄として、業界内部での評価の対象にはなりにくかった。だが視聴者のメッセージの受容心理や、メッセージそのものの生成装置が開発・普及されてきた変遷を鑑みていくと、タレントの起用はむしろコンテクストに配置する記号(フック)として鉱脈になりえる。仮説として言い換えれば、タレントやキャラクターが登場しないCMは、消費の検索コードから排除されると考えることも可能なのだ。

この思考実験が正しいか否かはさておき、クリエイティブは内的要因から発した表層の一階層ではなく、外的要因が幾重にも積み重なった構造的な隘路だと捉えなければ、メッセージが機能しているか、していないのか判断することはできない。アウトプットの善し悪しを判断できるものはエンドユーザーだけだ、とよく言われるのは、彼らこそが環境=コンテクストの真ん中に存在しているからである。とはいえエンドユーザーはディレクション機能を持っていない。政治と非政治、メッセージとその構造を、ひとつの表象として一元管理できるものこそをコンテクスト・ディレクターと呼びたい。
最終的に広告マンは、アカウント・プランナーとコンテクスト・ディレクターの二本柱で成立するようになる、と筆者は考える。それ以外の職種は分業/専門家され、APとCDの傘下に位置することになるだろう。APはよりクライアントとその組織体制、自身の営業戦略といった政治性に寄った環境を整理(ブリーフィング)することに努め、CDはより消費受容の環境を理解(ストラテジック・プランニング)することに邁進すべきだろう。その性能に両者の違いと順序がある。
しかし現実は、浅田彰が嘆くように、デッサンをろくに積み重ねずにいきなり抽象的な現代アートに取り組んだり、大塚英志が辟易するように、大家の筆致や功績をまったく無視したまま小説家を志すサブカル学生で溢れかえっている。純粋な表現レベルの話でも文脈は投げ捨てられているため、上記の議論はほとんど有効ではないのかもしれない。実際に筆者も、ごまんといるデザイナーの、タイプライティングの処理の杜撰さや空間の配慮を意識しない態度に驚いてしまうことがある。デッサンでも平面構成でもいいが、遠近法や構成法、比率感などビジュアル・コミュニケーション理論の基礎的な体感をしていれば起こりえない話ではある。インフラ(例えばインターネットによる趣味の蛸壺化)の発達によってコンテクスト・ディレクターが急務とされたにも関わらず、別のインフラ(例えば廉価Macintoshの頒布)のせいでもまた彼らが育ちにくい土壌もできつつあるようだ。