9×儀礼的消費社会

繋がりの社会性、アイロニカルな没入、ネタ的コミュニケーションの台頭。60年代の高度成長社会は「機能」を必要とし、80年代の消費社会は「記号」を食い散らかしていたが、「機能」も「記号」も一種のコンテンツとして消費されていた。だが00年代の私たちは、そのどちらにも強い関心を抱きつつ、どちらでもない別の次元、消費する行為そのものやコンテンツを知人間でバーターする作法にこそ、意識の重点が置かれるようになった。言い換えればコミュニケーション志向性の高い儀礼的消費社会を迎えているのは、多くの識者が指摘していることだ。
そしてこのパラダイムの変化を、実務レベルに一般言語として落とし込む作業が増えている。口コミの巻き込み化、バズマーケティングなど何でもよいが、消費者への実権移行を操作的に捉えようという戦術が多くの企業に広く受け入れられている。私たちはこの意識の変化にあまり自覚的ではないが、舞城王太郎の小説郡にはその片鱗を読み取ることができる。舞城のテクストから物語性を受容するというより、読み進めながら快感にふける感傷にふけってしまう。それは独特の美学というほど有意味なものではなく、剥き出しの美である。
セカチュウ2ちゃんねるケータイ小説にその志向性を求めても構わないが、舞城の訴えには私たちの深層心理の未来を占うところがあるように思える。

<執筆中・・・>