7×禁欲とセレンディピティ

むかし、一本の長いひもで婦女の肖像画を描こうと試みたことがある。むろん何本もの、ひもを使ってもよかったし、油彩でも水彩でも構わなかった。当時の私は自分の表現力に限界を感じていたからこそ、あえて自分に制限を設けることで、何かの偶発を引き出そうと無意識に考えていたような気がする。結果としてその作品は大変にいいものができた。イメージに表現が追いついてないせいで何色も重ね合わせるゴタつきを廃し、シンプルな線のみの筆致に到達できたのである。
ここで筆者が考えたいのは、なぜ人間に偶有性が必要なのか、またそれはどのようにして発生させるかという議論である。というのも私たちは社会の基盤が動物的になっていくなかで、いかに人間性を保てるのか、もしくは人間性さえ捨てるべきなのか選択を迫られつつある。筆者は結論として人間性は確保しなければならない、と考えているが、そのために表現レベルでいえば、手法論をあえて制御していくような所作。行動レベルでいえば、セレンディピティを日常に発作させていく仕掛けを張り巡らせてはどうか、と提案してみたい。
セレンディピティとは偶有性の発見力、より簡単にいえば、何かを探している時に、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力のことである。通常それは天性のものとして意図的に身についている、と片付けられるが私たちはそう考えるべきではない。なぜなら新しい価値は誰にでも、未知の世界に飛び込むことで初めて感じ取れるからだ。筆者はその手段のひとつとして、表現力をわざと絞ってイメージを表出してみるのを推奨したい。
日本のアニメーションは「ジャパニメーション」と呼ばれ、独自の進化を遂げているが、元々は低予算の中、できるだけセル画やコマ数を減らし、動きを簡略化させたリミテッド・アニメーションの手法が発達したものだった。手塚治虫の本質は、物語の精緻さでも、キャラクターの生成力でもない。禁欲的な美を希求したからこそアニメーションの可能性を切り開いたのである。その作家の自然な生活観は、現在の私たちの生にも、力強い肯定を与えてくれはしまいか。