39×コンセプト/ブランディングの廃止

私はこれから「コンセプト」と「ブランディング」という用語を使わないようにしようと思っている。前者については、第一に用語の解釈が人によってあまりにも揺れ幅が大きすぎること。そしてもはや小さな物語が跋扈する知識情報社会において、まったく新しい考え方を提示するコンセプト、という方策そのものが無化されつつあるからだ。現在の人々にとって物語の本質とは、内容いかんではなく、物語が流通する状況や行為そのものにシフトされつつある。
私はいまのところ、コンセプトに代わる時代精神として「コミュニケーション志向性」といった用語を採用している。

これとほぼ同じ理由、用語ブレの大きさと、消費者(生活者ではない)が求めている志向性が、無意識的にコミュニケーション行為に視点移行しつつあるため「ブランディング」が有効でなくなる、と筆者は考えている。マーケティングを超えるメタ概念としてブランディングは企業人に幅広く受け入れられたが、その解釈は送り手と受け手それぞれで大きく異なってはいまいか。

例えば送り手は自己分析と消費ニーズを徹底的に見据え、堂々とブランディングキャンペーンを行っているが、受け手はそれを軽やかにザッピングしている。博報堂は「生活者主権社会」を標榜しているが、生活者という呼称はもう正鵠を射てはいまい。80年代のポストモダンの突風からインターネットの荒波へ継承され、大衆は個々のライフスタイルを第一に考える生活者の称号を与えられたが、ゼロ年代において再びポストモダン(情報の洪水)とインターネット(CGMによる趣味の一辺化)のせいで消費者へと戻りつつある。というより、あるいは新しい消費の体系を手に入れたというべきだろう。私たちがいま欲しがっている価値とは、ブランディングにより与えられた情緒的価値ではなく、コミュニケーション行為によって知らず知らず手に入れてしまった体感的価値なのである。これは消費の刹那主義的社会と形容すべき環境なのでないか。これが私の批評的な直感である。

機能的価値から情緒的価値への変遷をたどって現在のブランド論は成立しているが、『テレビCM崩壊』にてジョセフ・ジャフィが指摘するように私たちの価値観は体感的価値へと緩やかに流れつつある。したがってブランディングに代わる基軸として新たに成立しえるのは「広義としてのインターフェースデザイン」「感性工学」などがより肌に合っているのではないか。

ほとんど誰にも理解されない説明なのだが、表層(2次元)を建築的に設計(3次元)する感覚、もっと簡単にいえばマーケットデザインができる者こそがいま求められている。そのためには経営と芸術のトレーニングが学際的に行われる必要があり、慶應SFCはその点で先見性を認められ成功を収めたが、そのせいで中途半端な人間も増殖されすぎてしまった感もある。どちらかを極めたものが非関心領域に目を向けるのが一番の効用であるようで、それが私のいうコンテクスト・ディレクターの育成法なのかもしれない。

テレビCM崩壊 マス広告の終焉と動き始めたマーケティング2.0

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