10×儀礼的消費社会2

かねてのブログから、mixiへと流れ込む人民が次々と止まらないらしい。これはなぜか。mixiでは友人知人がコメントを残してくれるからである。
この状況は社会学者たちによって「ネタ的コミュニケーション」とか「繋がりの社会性」と呼ばれており、私もアーヴィン・ゴフマンを引用して「儀礼的消費社会」と名づけてみたりした。いずれにせよこの社会における言葉の意味を説明することは、新しい記述や読解の可能性を考えることに接ぎ木されるのではないか、とずっと私は考えてきた。そのためにmixiとブログをそれぞれ運営しつつ、時には同じ内容を書き方を変えることでmixiに載せたり、ブログに載せたりしてみた。そんな実験をするうちになんとなく見えてきたのは、私たちの想像力の源泉や感動の形が大きく変わってきたということである。

田中康夫の『なんとなく、クリスタル』は本文よりも、文中に登場してくるブランド名や個人名などに対する解説文のほうが記述が長く、読者も評者もその固有名詞の乱舞をおもしろがり、ポストモダン文学の旗手とされた。田中によって新しいテクストの読解は差し示されたが、ここ数年のケータイ小説の動きは、また新しい読解の可能性を感じさせてくれる。ケータイ小説の内容そのものは、固有名詞どころかほとんどが情緒的かつ抽象的な心象風景しか描かれてはいない。だが『なんとなく、クリスタル』と通底するのは、記述の内容でなく形式や外郭が読まれてしまう状況なのだ。
そして田中が描いたポストモダン文学と、ケータイ小説のような感動消費型の文学が大きく異なるのは、本と携帯電話の画面というインターフェースの違いである。単純なようだが、後者においてはその媒体こそが、内容のいかんを決定しているのだ。ケータイ小説で描かれていることは、これまでの文学観においては冗長で幼稚な思いの発露にしかならないが、ある一定の読者(主に少女たち)、しかし非常に大きなボリュームの読者のフィルターを通せばそれは感動の文学となるし、商業的にもベストセラー級となる。

自分の書いた思いにコメントで反応してくれるから書くんだ、という共感的記述。ケータイの画面で読めるからこそ面白いんだ、という環境的読解。これからの新世代の書き方と読み方は旧世代から大きく変容しており、徐々に社会通念として浸透していくのであれば、あらゆる創作物はただちに瓦解・解体されなければならない。そうしたパースペクティブを見通してこそ、私たちは新しい想像力の可能性に感受することができるのではないか。