12+42×メタ広告2

うーん、いかん。mixiばっかり書いて、ブログが放置気味ではないか。mixiは公開したくないプライベートなメモ。ブログは自分の考えを表明するものとして位置付けているが、気づけばブログが高尚化していないか。とうぶんmixiは自粛したいものだ。
さてところで。今さらながら驚いたのだが、「ニコニコ動画」はラディカルだと思う。YouTubeと同じ動画投稿サービスであるが、西村博之がプロデュースするだけあって、ポピュリズム的で2ちゃん的な感性が色濃く出ている。 ニコニコ動画の最大の特徴は、再生中の映像に覆いかぶさるように、視聴者が投稿したコメントがスクロールで流れてくることだ。この平面で処理される情報は高次的なものであり、ユーザーはコンテンツを観つつ、その心象風景をコメントによって先取りされてしまう。ここに読解の多層化と、複線的な視線が潜んでおり、物語の読み方やコンテンツ制作の方針を揺るがす可能性を秘めている。

例えば単線的な物語では、感動の場面では一律にみな感動するのだが、プレイヤー主体の複線的なコンテンツでは、何がしかの批評的な視線が物語に介入することによって、読み手はそのコメントも同じレイヤーで処理せざるを得なくなる。視点Aに、メタ視点Bが介入することで、AとBをあらかじめ了解した上で、新たな視点Cが発想される。
この状況が敷衍すれば、製作者はA/B/Cの視点すべてを前提にした上で、受容者の期待を裏切るような設計を行なおうと試みてしまう。本論では情報処理が幾度となく高次に上昇し、処理過程で零れ落ちた読解を吸収することで情報生成そのものにまで影響を与えられてしまうコミュニケーションフローを、メタループ読解によるメタコミュニケーションの創出と仮に呼んでおくことにしよう。
例えばソフトバンクのCMは、広告内広告と言うべき構造を採っており、かつての自虐広告を思い起こすのだがそれがもっとラディカルで自然に見えてしまう。これは制作サイドの遊戯というより、複線的な視線によって要請された帰結といえないだろうか。
そして2011年の地上デジタル放送は、再帰的なメタコミュニケーションを際限なく生みやすくしてしまう。次回はメディア環境から眺めた読解の変容について考えたいと思う。