20世紀少年・21世紀少年

この文章は『20世紀少年』『21世紀少年』の重要なネタバレを記述しています。よく注意してお読み下さい。


浦沢直樹の『20世紀少年』『21世紀少年』を読んだ。この作品は竜騎士07の『ひぐらしのなく頃に』『ひぐらしのなく頃に 解』と極めて似た構造を抱えた作品となっている。出題編と解答編に分かれているのも同じ体裁である。
20世紀少年』の冒頭は、主人公であるケンヂが信望するT-REX「20センチュリーボーイ」を中学校の校内放送をジャックし、爆音で放送したにも関わらず「何も(世の中は)変わらなかった…」と述懐するシーンから始まっている。そして解答編の『21世紀少年』のラストシーンでは、この音楽を聴いたおかげで自殺を留まったカツマタ君の姿が描かれており、大人になったケンヂによって真犯人である“ともだち”の正体はカツマタ君であったことが明らかとなる。読者はこのカツマタ君の名前を聴いてもまったく誰だったのかほとんどの読者は思い出せないほどに、ほんのわずかしか名前が登場しないし、最後まで表情が描かれることのなかったキャラクターである。
20世紀少年』において“ともだち”とは誰にも思い出せない存在であり、そのような忘却された存在こそが世界を破滅へと導くのだという設定が採用されている。そもそも初代“ともだち”の正体はフクベエであったが、フクベエも影の薄い存在であった。フクベエはケンヂたちというキャラクターによって忘れ去られているが、読者にとっては印象に残りやすい存在として描かれている。だが逆にカツマタ君はキャラクターには「すでに死んだ」と記憶されているが、登場が極端に少なく姿形さえ出ないために、読者には忘れ去られた存在として描かれている。したがって“ともだち”の本質は、キャラクターと読者の次元それぞれで忘れ去られているが、みんな(キャラクターと読者)の仲間に入りたい者であるからこそ、その正体は初代がフクベエで、二代目にカツマタ君という複合的な描かれ方をしなければならなかったのである。真犯人が二重三重に用意されており、物語を読み進めるにあたってその都度に正体が暴かれていくのも『ひぐらしのなく頃に』と同じである。
「マンガノココロ」というブログでは、そんな浦沢の詐術について説明が行われている。

「誰それ?」ではなく「誰だっけ?」と思い出せない点。実際、カツマタくんは作中に登場しています。だから『知らない』のではなく『思い出せない』。それが”ともだち”の本質であり、浦沢が描きたかったことなんじゃないかな、と私は思います。(中略)
作中で初めて明かされた”ともだち”の正体はフクベエでした。でも実はその黒幕がいた。つまり"ともだち"の"ともだち"です。”ともだち”の正体がフクベエだとわかった時点で終わらせなかった理由はここだと思います。ケンジたちはみんなフクベエのことは思い出しました。おそらく思い出した時点で”ともだち”の本質からは外れるんでしょう。本当に思い出せない人物は『友達の友達』だ。そう思ったからこそ、浦沢はさらに物語を続けたわけです。

そして『ひぐらしのなく頃に』では、羽入という忘れ去られたキャラクターが、最終話で主人公たちと共に闘うことを表明して物語の渦中に参加することで世界が救われることを描いた作品であった。『ひぐらしのなく頃に』は羽入を物語に参加できずに物語を第三者として眺めるだけのプレイヤーの次元として描きながら、しかしそのプレイヤーこそがキャラクターたちを救うのだという詐術がある。『20世紀少年』において羽入にあたるのは、大人ケンヂである。カツマタ君はケンヂに万引きの濡れ衣を着させられたことによって世界崩壊への道へと進む(ともだちに異常に固執する)ことになったわけだが、大人ケンヂはそのカツマタ君の想像の世界に進入して、かつて自分が犯した罪を少年ケンヂに謝らせることで回避しようと試みている。これは『ひぐらしのなく頃に』における梨花というキャラクターが惨劇の世界をループして、惨劇を回避しようと挑戦し続けるにも関わらず絶望を繰り返すために、最終話で羽入というプレイヤーが参戦するのだという設定とまったく同じと考えられるだろう。
まとめると『20世紀少年』において、私たちが共振してしまうプレイヤーの視点とは、忘れ去られたカツマタ君と、忘れ去られた存在の中に入り込む大人ケンヂによって担保されている。そしてそんなプレイヤー視点の文学として『ひぐらしのなく頃に』と同じ構造を抱えていると考えられるのである。


と、長々と書いてみましたが何を言ってるか判然としない悪文ですね。あまりまともに読まないでください。この『20世紀少年』という作品は普通に(自然主義的に)読んだら論理展開は滅茶苦茶にしか感じないし、私も率直な感想はあまり面白くなかったのですが、批評的に読むとけっこう面白い。面白さのタイプとはいろいろあるのでしょう。私はやはり批評的に面白い作品に出会いたいなと思ってしまいます。