“読む”から“詠む”へ

どうも私は失語症なのではないだろうか。本はたくさん読むが、記憶に残らない。文字と文字の連なりがない。三島由紀夫をあれほど貪り食ったのに何一つその物語を覚えていない。キーワードを断片にして脳にストックし、たまに閃光のようにその霊験が降りてくるだけだ。マーケターであるにも関わらず、私は驚くほどに文字の情報に興味がない。テクストを追うことはない。テクストが配置される面をビジュアルで咀嚼し、気持ちがよいかどうかしか考えてない。
親友に「君は頭が良いというより、頭が切れるタイプだ」と言われたことがある。そのような感性は、読むのではなく“詠む”のであろう。字間と行間から文字情報を得るという感性。確かにロラン・バルトに惹かれたのはテクストの旋律と音韻であった。“詠む”の概念では、解釈と同時に排出をすることになる。インプットとアウトプットがクラインの壺のように相互循環する。ここが重要なポイントだ。

この間、会社で「アイデアとは何か」という主題で会議をやっていたら、みんなの意識と自分の意識のあまりの違いに驚いた。クリエイティブ能力を博報堂では、構想力と呼んでいるらしい。その中身は3つ。発想力・共有力・設計力。みんなは発想力をアイデアと考えているが、私は発想力というものは、もはやない(あるいは誰にでも十二分にある)と思い込んでいた。私は共有力と設計力と、さらにもうひとつ、文字そのものではなく、文字と文字の間にある空間=間テクスト性を詠む、構造力あるいは感性力とでも名指すべきものを付け加えた3つの重なりにアイデアがあると捉えていた。しかしこの想いは現在では非常識なものでしかない。しかもどうしようもなく、他者へ伝えるために言語に縛られざるをえない。言語の限界と重要性を改めて思い知らされている。
ちなみに注釈しておくと、物事を構造的に捉える視点と、感性的に捉える視点は、私のなかでは矛盾がない。どちらも同じ意味で名指している。両者は、物事の中心ではなく、物事と物事の関係性にこそ中心点がある、と捉える視点にその本質があるからだ。