余地を残した物語

わざとNGシーンを取り込むテレビCMが増えている。
例えば「タンスにゴン」のCMでは、左のうさぎが途中でバランスを崩しながら踏んばる様子をそのままワンカットで撮り続けている。


ラッキーサイダー」のCMでは、佐々木希がポージングしながらも、ふらふらとよろけてしまっている。


なぜこのようなミステイクを採用するのか? 答えは皮肉めいた視聴者に「天然っぽくてかわいい」「なんか気になる」と“錯覚”させて注意を稼ぐことが簡単にできるからだ。ミスリーディングこそが正しい読解であることを指し示す表現だといえるだろう(あ、哲学論議はすると長くなるのでまたの機会に…)。

CMプランナーの澤本嘉光は、これからは「余地」のあるCMが台頭化していくだろう、と語った。澤本はソフトバンクのCMでお父さんが犬に、お兄さんが黒人になると設定し、物語の内容においてツッコミの余地を残すことを狙った。一方で上記に挙げた「タンスにゴン」「ラッキーサイダー」での表現は、文体(コマーシャル用語でいえば演出)においてツッコミや感情移入の余地を残したと言えるだろう。表現のトレンドが内容から文体へ推移しているなかで、次に現れる現象は、構造と環境への変化だ。
余地を残す表現が構造と環境に現れてくるとはどういうことか。次のような現象を想像してみるとわかりやすいだろう。例えば秒数が13秒で終わってしまうCMがあったとすれば、視聴者には「2秒残して終了だけどいいのこれ?」という疑問と興味を促してしまう。これは構造における余地のあり方だ。または、まったく意味不明で何のコマーシャルかわからない、しかし美しい60秒の映像が、毎週金曜の24時きっかりだけに放送されるCMがあったとすれば、視聴者はそのわからなさに喚起され、ブログや動画サイトでその続きを創作しようとするだろう。これは環境における余地のあり方だ。
物語は、内容/文体/構造/環境の4つに分けて説明することができる。余地という表現方法をひとつ取り上げてみても、その焦点をズラすだけで帰着点がまったく異なってくることがわかるだろう。そして内容や文体においては新しい表現を開発することはわりと自由度が高いのに比べて、構造と環境において新しい表現を達成することがいかに困難かも見えてくる。構造はメディアの既成概念を再構築していく作業を伴うし、環境はユーザーの行動をダイナミックに扇動せねば実感ができない。澤本嘉光電通でメディア部も兼任しているらしいが、おそらくその困難さを突破せねば新しい表現が産まれないことも知っているのだと思う。


ところでSo-netのCMに出ている子はAKB48篠田麻里子である。やばいですね…そろそろブレイクしちゃうか。あのかわいさは異常であり ネ申 でしかないのだが、私はとりあえず篠田麻里子を見るたびにわたわたするしかなさそうである。なんだかんだタレントパワーって強力だと思う。真面目にソーシャルタギングの理想系なんじゃないか。