啓蒙かまぼこ新聞

小説家の中島らも。彼がコピーライターだった時代の代表作に『啓蒙かまぼこ新聞』という伝説の雑誌広告がある。2ページの見開きで、カネテツデリカフーズのかまぼこをネタにして、商品とは何の関係もない、中島らものふざけたエッセイや4コママンガ、読者からの投稿が誌面を賑わせていた。この仕事は、広告のあるべき姿が提示できていたと思う。これこそが現在において、広告と呼ぶべきものである。
いま、広告を「コンテンツ」と呼ぼうという潮流がある。だがそう叫ぶ人ほど、コンテンツのつくり方がわからないのが現状だ。広告に携わる人は、完全にマーケティングの作法が頭にこびりついていて、人を楽しませる手法を持っていない。これが現実だ。

ではどのようにすれば広告はコンテンツになりえるのか。マーケティング脳に汚染された人に、そのやり方を教えたい。最大のコツは、USP(機能的特徴)から出発してはいけないということだ。ではどこから出発すればよいか。商品から感じるインスピレーションから出発すればよいのである。そしてそのインスピレーションは、良いイメージだけでなく、悪いイメージもふざけたイメージも取り込んで、ぜんぶ使ってしまえばいいのだ。簡単にいえば商品をネタにして、好き勝手遊べばいいのである。ところで「ある広告人の告白」でも中島らもについてエントリがあがっていたので参考に。

「そんなの広告として成立しないよ」と、マーケターは思うのだろう。はっきりいって、だからマーケターなんて人種はダメなのである。そういう脱広告こそが広告なんだ!と、クライアントを説得するロジックをつくるのが、マーケターの使命である。そしてそういうふざけた広告を、USP志向の広告クリエイターになんか任せず、同人作家とかMAD職人とかニートに丸投げして、アナーキーな世界をつくればいいのである。そしてロバート・ノージックみたいにリバタリアンな世界でばっちりいけるぜ、という話をすればいいのだ。そう、もうすでに私は答えは見えている。後はやれるかどうか、だけだ。

ということで、アナーキーな広告国家を先駆けた中島らも『啓蒙かまぼこ新聞』は必読である。コンテンツとかかっこよろしいこと言いたいんなら読みなさい。ブランディングがどうこう言いたい奴は、ゴミの役にも立たないドラッカーの啓蒙でも聴いてなさい。


啓蒙かまぼこ新聞

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