レイバーワーク
沢山遼『レイバーワーク:カール・アンドレにおける制作の概念』を読んだ。この論文は美術手帖が主宰する芸術評論賞の第一席(グランプリ)を受賞している。ちなみに面識はないが沢山さんは私の大学の、そして同じ学科の後輩である。生まれて10年足らずの学科なので、今回の受賞は同志として非常にうれしいことだった。またこのテクストに多いに刺激を受けたので、以下にちょっと感想を記してみる。
この論文では、いわゆるミニマリズムが形式的条件を指し示すのではなく、その代表的作家とみなされていたカール・アンドレにおいては制作する主体のほうにこそ定義されていることを示唆している。アンドレの作品はジャッドの幾何学的な華々しさに比べて、あまりにも素材が剥き出しのままで「貧しく」見える。おなじミニマリズムでもなぜこうも違うのか、と考えたときに、アンドレにおいては作品よりも、アンドレ自身の態度にこそミニマリズムの根源が隠されているのではないか、との仮説が提示されているのだ。
アンドレやミニマリズムに関する深い言及については、私の手に負えない範囲なのでここではあまり取り上げない。詳しくは本論を読んでみてほしい。しかしながら私が個人的にたいへん興味深かったのは、ハンナ・アレントの『人間の条件』で示されていた「仕事」の重要性を批判する形で「労働」の今日的な意味を浮かび上がらせていた点だ。仕事とは技巧的な創造力であり、つまりこれは芸術のことである。芸術とは人間の生とは離れたところで浮かび上がる人工的な所作だ。たいして労働とは、人々が生きるために生産し消費する、その閉じられた連関の運動体のことである。そしてアレントは、人間にとって大事なのはガンガン仕事をすることだよ。労働はみんなやってることじゃん、と主張していたのだった。
沢山はアレントが提示した仕事の概念を、芸術の現在と結びつける形で批判している。アンドレはいわゆる芸術家でありながら、「置く」「積む」といった所作からもあきらかなように、もはや労働に近いのではないかという分析をしている。たとえばアンドレによるレンガを置くだけの作品「カーディナル」は、その置いた瞬間に、観客がレンガを踏み歩いている状況をかんがみると、生産と消費が密接に結びついているという意味において労働であるという。こう考えるとジャッドのパキっとして触れることを許されないマテリアルのミニマリズムと、アンドレの作品はその成立過程がまったく違うことがよくわかる。
ではなぜ本論では芸術のプロセスを、仕事ではなく労働に見出したのだろうか。この点の論旨はやや勝手な読解になるかもしれないが続けてみよう。おそらく現在の自由(芸術)が生成されているその背景にあるのは、人々の生命に裏付けられた労働力があるのだという政治的なメッセージを取り上げているわけだが、この含意を芸術の観念に接ぎ木しようと試みているのだろう。
つまり芸術とは思考の外化だと思われていたが、思考する行為そのもの、あるいは生きるための行為そのものから芸術の条件を見出そうと沢山は(アンドレは)試みているように感じた。この発想は優れてアクロバティックである。芸術はメッセージを訴えるものだとされていたコンセンサスに、芸術は生きるためにやることなんだ、そもそも芸術の起源である呪術は生きるための行為だったではないか、という反論を繰り出しているように見える。もうひとつ勝手に連想したことを記しておくと、このテクストは東浩紀と桜坂洋が描いた、ゲームをしながら仕事ができる「ゲームプレイ・ワーキング」の発想と近いものがあると思った。
この論文が傑作であることは言うまでもないが、しかしそれだけでは今日において不十分であることも言っておきたい。審査員の椹木野衣が、労働という言葉を扱う以上、派遣労働やパートタイムの問題とも連結してしまう可能性や、その概念のアクチュアリティも示すべきだと思った。いや、訴えざるをえないだろう。
いま、批評はかなり読まれていない。不要とされている。ましてや芸術の評論といったら、一般人はおろか下手すればアーティストさえ読んでいないだろう。読んでいるのは数少ない美学系の学生たちとその講師陣、藝大を何浪もしているようなごくつぶしとかだ。あらゆる人たちに美術批評は読まれなければならない。このテクストにはその読まれるための射程があるが、それがどんなアクチュアリティを持っていくのかは明確にされていない。今後は労働的な芸術制作の概念が示した可能性を、より拡げて考えられるような論考を期待したいと思う(かなり乱暴な読み方でしたが ごめんなさい)。
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