愛について100の物語

夏休みをつかって、金沢21世紀美術館で開催された「愛についての100の物語」を観てきました。高校の先輩である照屋勇賢さんの作品を観たかったのですが、Zone2の展示は7月までだったので終了・・・。川上未映子のポエムも7月だったようで、なんのために行ったのやら。ジャズ奏者の山下洋輔の「ピアノ炎上」が観れたのはラッキーでした。はてなフォトライフでもアップしましたのでご覧ください。


さて、会場でたまたま同僚に出会ったので、翌日、その同僚と展示について議論を交わしました。彼女は芸大卒なので現代美術に対するリテラシーがあるかと思いきや「ぜんぜんわからなかったし おもしろくなかった」とひとこと。とりわけ島袋道浩のトマトを水槽に浮かべるだけの作品には、ずいぶんな悪態をついていました。芸術を専門に勉強していた人でも現代美術を楽しめないというのは、いささか制作者サイドの責任を感じずにいれません。現代美術は良くも悪くも「文脈の表現」ですから、文脈を理解していないと鑑賞者は楽しむことができないと思います。それは前に「間主観性と合意形成」というエントリでも記した通りです。
もちろん現代美術のサーフェスだけを切り取って、娯楽として楽しんだり、表現の肥やしとして見ても構わない。しかし哲学の根源を知らずして、哲学書を無闇に読んでもあまり効果がないのと同じで、現代美術の鑑賞を楽しむためには、なぜこのような作品が制作されたかという環境分析的読解が必要になります。この事実を多くの人は知らないという不幸を、作家と学芸員たちはずっと無視し続けてきた。これは受け手側が漫然と眺めているだけという怠慢もさながら、さすがに送り手側の説明責任が大きいかもしれません。金沢21世紀美術館は、キャプションの書き方がていねいだったり、単なるホワイトキューブに留まらない流動的な展示方法によって、説明責任をなめらかに語っていて心地よかったです(それでもなお、わからないと言われるのだが)。
送り手はぐだぐだと説明する必要はないのですが、受け手が理解したくなるような圧倒的な美しさは求道すべきではないでしょうか。NHK森美術館の館長である南條史生は「アートとは、人のココロを動かすものだ」と言ってたが、私は単純に「多くの人が美しいと感じる圧倒的なものだ」と考えたほうがいいのではないかと思いました。

作品の美しささえ伴えば、鑑賞者にも一定のリテラシーが必要になってきます。現代美術はそのわかりにくさが魅力ですが、鑑賞している作品が美術界のなかでどのようなポジショニングを採っているかを抑えておいたほうが、より楽しめると思います。そのために『なぜ、これがアートなの?』という本はリテラシーを埋めるのに役立つのでおすすめしておきます。


なぜ、これがアートなの?

なぜ、これがアートなの?