集まる創発と群がる創出

ある論文を書き終えて、ほっと一息している。ブログをさぼってTwitterばかりやってたので、そこで貯めたメモをブログで書いていくことにしよう。それにしてもTwitterを試していて確信したのだが、私はTwitterそのものは否定しないのだが、Twitterに群がっている人たちに疑問があるんだなと思った。
というのも、賑わいをみせているソーシャルメディアSNSでも動画サイトでもモバイルゲームでも何でもいいのだが)に群がりはじめる人は、そこでなにかビジネスをできないか考えている人々だ。このソーシャルメディアは会員も多くて接続時間も長いんで、プロモーションに使えると思ってるわけだ。
だがこの発想はじつは大きな間違いをしている。なぜならプロモーションに使おうとする発想そのものが、ソーシャルメディアの本質と矛盾しているからだ。たとえばソーシャルメディアに人が集まるのは、そのメディアそのものの用具性に惹かれて集まっている。ソーシャルメディアはそこに個我を持たないからこそ、人が集まりやすい環境となり、秩序が生まれ、メディアとして大きくなった。ビジネスマンはこの自生的秩序をむりやり歪めて、外圧的秩序にしようとするわけだ。たとえばソーシャルメディアで語られるユーザーのコメントを、プロモーションの言葉にすりかえようとするのは不自然であることはよくわかるだろう。


ソーシャルメディアが作ってきた自生的秩序は、創発を生み出している自然物のアーキテクトである。対して外からその環境を操作しようとするのは、創出を企図している人工的なアーキテクトである。創発のアーキテクトの問題は、資本と収益性がないために、創出のアーキテクトを介在させようとするわけだが、私の考えでは創出を試みる主体のエゴこそが問題とされるべきだと思う。つまりソーシャルメディアで儲けようと考えるのは、発展途上国への後方援助をコマーシャルに転用するのと同じ愚かさなのではないだろうか。
その問題はとても根深いもので、到底このエントリで分析できるものではない。しかしごく単純な話だけ言及しておくならば、ソーシャルメディアが「メディア」と名付けられてしまってることは問題のひとつとして挙げられるだろう。メディアには産業的な意味合いが強い。もちろん産業が興らなければ成り立たないのであろうが、ソーシャルメディアは今では公園やサロンのような公共空間になりつつある。だから公園をメディアにしてはいけない、という発想を私たちは持たなければならない。