間主観性と合意形成

先日、私は今の現代美術には、コンテクストが共有されていないと述べた。 これをやや哲学的に言い換えるならば、間主観性を欠いているのを知らずに 作家と鑑賞者はそれぞれ勝手なコミュニケーションを行っていると言える。その状況はある面で、現代社会の様相をよく呈しているとも考えてもよいかもしれない。
そして私がオタク文化が面白いと思っているのは、間主観性を欠いたコミュニケーションが横行するその現代社会に、超越論的な他者が相互調整しているわけでもないのに(しているケースも増えたが)、純粋な間主観性によって成り立つ五感的なコミュニケーションがなされている、という事実なのである。

簡単にいえば、オタク文化における作家と鑑賞者の間には、「俺はこんなキャラクターを作りたい」「誰がなんと言おうと俺はこれに萌える」と、お互いの言いたいこと、やりたいことしか飛び散っていないはずなのに、なぜか「そう!それが俺の欲しかったものだよ!」とうまい具合にお互いの合意形成がなされてしまうということなのだ。

ではなぜ間主観性が重要なのか。そもそもコミュニケーションとは、より良い社会とは、公共性とは、市民たちすべてにある程度の共通認識が了解されているからこそバランスを保てている。間主観性が成立している環境とはつまり、人間的に理想のコミュニケーションが働いていることの証左でもある。

しかしながら内田樹レヴィナスを引いて「主観性とはそのつどすでに間主観性である」と述べている。*1 つまり主観的に表象を観測するという事実、世界が存在しているという当たり前の認識が成立している時点で、その視線には他我が内包されているからだと述べている。
確かに他我(他者ではない)を信じることができない者は、精神分裂を引き起こす。つまりコミュニケーションの存在条件が崩壊することを意味する。そして分裂症の患者とは、コミュニケーションが成立しない。これは言い換えれば、間主観性を欠いたコミュニケーションとは原理的にありえない、とも読み取れる。

内田の指摘は哲学的には正しい。だが私は間主観性が壊れた後の世界認識と、そこで他者といかに文化を形成すべきかという実践的な論点に関心がある。内田的な意味での間主観性を無視し、ありのままの主観性、言わば快楽原則にだけ従う人間のコミュニケーションだけでは、人間社会や文化を存続させることは難しい。
そのため私はある程度、意識的にコンテクストを発動させる文化の環境が必要だと見ている。つまり我々は言語を介して、物々交換しながら日常生活を過ごしているが、文化というモノを通しても、コミュニケーションの合意形成を発動的に行わなければならないと考える。

その意味で、本性が間テクスト的な「広告」の存在は、重要である。そしてまた逆説的な思考実験に過ぎないが、間主観性を欠いた「広告」というものが成立しえるのかという問いも強いてみるのも面白いのではないか。もし成立するのであれば、それは「現代美術」と呼ばれるものに極めて近いモノになるのではないかと予感している。
 

*1:内田樹『他者と死者』海鳥社、2004年10月