11×表現論の不在
『思想地図vol.1』に収録された黒瀬陽平「キャラクターが、見ている。―アニメ表現論序説―」を読んだ。本論では日本のアニメーションにおける批評の空間は物語論に偏っており、表現論を捉えたものが皆無だと分析している。
これは何もアニメーションに限ったことではない。同じサブカルチャーであるゲーム、ファインアートである文学や美術の領域においてもなお、表現のレベルを精緻な言論にしたものは極めて少ない。実験小説である『キャラクターズ』の分類に従うなら、構造/内容/文体の中で、批評のほとんどは内容に着目し過ぎる嫌いがあった。その反動で批評のメタポジションに立つべく、構造を読解する批評が生まれてきたわけだが、一向に文体には関心が寄せられていない。なぜか。文体≒表現をつかさどるものが表象を言語化する能力を持っていないからだ。創るだけで精一杯なわけだ。
この不幸さには批評の貧困が現れている。そもそもあらゆる文化とは、文体≒テクスチャーの表現にその本姓がある。内容を読解するのであればケータイ小説を読めばよい(プロットの過剰となった小説の極北だからだ)。しかし私たちが消費するコンテンツのほとんどは複合的な表現である。ところが私たちはその是非を語るときに、内容面に目を向けてしまう。コンテンツが増殖し続けた結果として近年では構造的な読解も可能となっているが、文体面での読解は確立していない。これからのコンテンツ論には制作者への視線とその言語化が求められていくだろう。
- 作者: 東浩紀,北田暁大
- 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
- 発売日: 2008/04
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