56+13×ソーシャルタギング

私はよく「企画や言葉、メッセージやコンセプトという概念はなくなる」と発言している。その趣意は広告業界に対してのものだが、文学論に敷衍するならば、内容は消滅して構造と文体が残るといえる、情報論であればデータベースとインターフェースの層が前景化すると捉えてよいだろう。さてここで着目したいのは、情報論の立場では内容やメッセージに相当する概念は存在していないということだ(コンピューターの中にはバックヤードのDBとそれを表徴するGUIがあるだけだ)。私はここにコンセプトという概念の脱構築を狙っているわけだが、ではコンセプトはどのように変質するかというと“タグ”のようなものへと変わっていくと思っている。どういうことか。

なぜ広告のプランニングは不要になるのか。それは検索エンジンの情報源に触れていれば、プランニングするという行為が簡単に代替可能であることが直感的にわかるだろう。検索エンジンから産まれるアウトプットはいずれ人間的原理からの着想と比べても判別できなくなる。「Amazon Mechanical Turk」や「はてな人力検索」は人間の考える作業をタスク処理へと変換するシステムである。チューリングやサールたちは人間と機械の知能はいかに異なるか議論を繰り返したが、表象のレイヤーから観察すればその区別はほとんどできなくなるだろう。広告界でもこれからはさらにプランナーとコピーライター(内容)は衰退し、コミュニケーションデザイナー(構造)とアートディレクター(文体)が台頭するようになるだろう。物語が消滅する時代にプランナーとコピーライターが実践するべきは、構造でも文体でもない。タグの記述である。

インターネット時代の感性の中で、タギングの作法は極めて重要となる。考えてみよう。通常、私たちが広告物に触れた時に受容するのは、コピーとビジュアルである。だがその感性はWEBやCGMが広まることでメタ消費が一般化することで、いとも簡単に分解されることが増えてきた。パロディはその一例だろうが残念ながら広告物はその遡上にさえ上がっていない。逆に言えばパロディにされてこそ広告訴求は成功すると考えるならば、広告物には消費者が反応しやすいタグを埋め込むことが肝要になる。要素分解される現実から逃避するのではなく、それこそ受容されていることの証左だとすれば、タグ受容されやすいよう技術を覚えたほうが良いだろう。

次回はタギングの作法とはなにか、考察していきたい。