物語論から表現論へ 3

涼宮ハルヒの憂鬱』の第二シーズンが始まった。このアニメではとんでもない実験が行われていて、呆然とした。第13話と第14話の構成と脚本を寸分足りとも同じにとどめながら、セリフ回しを少しだけ変えつつ、演出をガラリと変えることで作品を成立させてしまうという実験が行われていた(正確にいえば第12話も同じだが、微妙に構成が違う)。
涼宮ハルヒが夏休みを満足するまで、永遠に8月の2週間が繰り返され続けるという物語になっており、それをそのまんまアニメで表現しているのが大まかなプロットだ。ただし原作の小説では、ループから脱出できなかった時の描写はほとんど描かれていなかったにも関わらず(描いたとしたらテキストのコピペをするしかない)、アニメでは実質的に3回のループ、つまり3回とも同じストーリーを繰り返すという、極めて非常識的な実験が行われている。しかしながらその3つともに絵コンテの使い回しは一切ない。カメラアイを見ても、あらゆるシーンにおいて見事なまでに描写を変えている。


こちらが第12話(第二シーズンにおける第2話)
http://www.youtube.com/watch?v=uQZtGnQdQ_w&feature=related:MOVIE


こちらが第13話(第二シーズンにおける第3話)。
http://www.youtube.com/watch?v=yYHheZSxAjE&eurl=http%3A%2F%2Fmixi.jp%2Fview_diary.pl%3Fid%3D1217140044%26owner_id%3D517545&feature=player_embedded:MOVIE


こちらが第14話(第二シーズンにおける第4話)。
http://www.youtube.com/watch?v=FqH_1ch_y-w&eurl=http%3A%2F%2Fmixi.jp%2Fview_diary.pl%3Fid%3D1217140044%26owner_id%3D517545&feature=player_embedded:MOVIE


詳しい検証はこのブログでもなされているので参照されたい。この実験は、相当にクオリティの高いアニメーションでなければ、成立しえない表現だ。なぜなら冗長な物語に視聴者は耐えられないからだ。
ぼくは京都に移住して、某アニメ会社で清掃のバイトをさせてもらうよう、嘆願しにいこうかと思い始めている。