物語論から表現論へ 4

表現論の分析と名付けながら、実際にやっているのは京都アニメーション(略称:京アニ)の太鼓持ちばかりをしているが、実際に京アニこそが表現レベルにおいて評価されるべき作品を数多く残しているから仕方がない。では開きなおって、京アニの優れたところは何かを解説してみたいと思う。
京都アニメーションはもともと仕上げを中心とした下請けの制作会社だった。その丁寧な絵の作り込みや品質の高さに定評が高く、元請けを行うようになってから『AIR』『CLANNAD』『涼宮ハルヒの憂鬱』『らき☆すた』『けいおん!』と大ヒット作を数多く手掛けてきた。
京アニの優れた点は、単純にアニメーションとしての品質が極めて高いということだ。下請け時代もその評判から仕事の依頼が絶えず、京アニに仕事を依頼するために元請けの会社がスケジュール調整をしていたという、業界の常識では考えられない事態がおきていたほどだ(アニメ業界において元請けと下請けはカースト制度のような上下関係にある)。
ではいったい、どのような点が品質が高いと言われている所以なのだろうか。私見では下記の3つに、彼らの魅力が集約されている。順を追って分析を続けてみよう。


1.背景の描写が無駄に細かすぎる
京アニの作品は、背景画が丁寧に美しく描かれているのがひとつの大きな特徴だ。たとえば『らき☆すた』はSDキャラクター系の作風なので、背景の描写はシンプルでベタに仕上げてもいいはずだが、なぜかこの作品でも背景画はまるで写真のようなイラストが配置されたり、劇画タッチの作画が多く挿入されている。その効果によって、フラットであったはずのSDアニメの作品全体に「臨場感という矛盾」を与えてしまった。たとえば『らき☆すた』で泉こなたアニメイトに入店するシーンを取り上げてみると、作画スタイルがまったく異なるSDキャラ・劇画・背景画を、混在させながらひとつの動画に仕立てることで、異様な空間性が演出されている。

通常のアニメーションは、言い換えれば二次元上絵画の連続体であるがゆえに、全体としてフラットなサーフェイスになりがちである。つまり視聴者から見ると、背景とキャラクターの描写が、同一平面上に描かれて“いるように”見えてしまうものこそがアニメーションである、という通念が長らく根付いていた(これは余談だが 村上隆はこの特性こそを「スーパーフラット」という政治性に転換することで現代美術の文脈で回収することに成功したわけだ)。
いずれにせよ、アニメーションの性質はベタでフラットだからこそアニメなんだ、と認識されていた。大友克洋押井守はそのカウンターとして映画のようなリアリティをアニメーションの表現に導入していたものの、テレビやOVAなど一般大衆が受容する作品に関してはあくまでベタでフラットな作風が続いていた。リアリティアニメはあくまで映画のものでしかなかった風潮のなかで、地上波とセルビデオ(そしてYouTubeでもある)を中心とした京アニの作画のひとつひとつが、異常なまでに書き込まれていることに着目する視聴者は多かった。そのような待望のもと、京アニの制作スタイルは一種のブランドとして迎え入れられた。


2.カメラアイによってリアリティを強力に演出している細かい描写の背景画は画面にリアリティを与えているが、そのリアリティは作画だけの手柄ではない。カメラアイという映画的演出を多様することによって、フラットを回避し、画面のサーフェイスに立体感を恒常的に与えているのも大きな特徴だ。
たとえば『涼宮ハルヒの憂鬱』の第一話で、主人公である涼宮ハルヒのことを噂する3人の男子生徒の会話のシーンを取り上げてみよう。このシーンは十数秒のたわいもない会話をしているだけにも関わらず、作画が次々と入れ替わっていく。そして3人を捉えるアングルは、カメラアイを強烈に意識している。通常のアニメによる会話では、3人をひとつの画面に強引に押し並べて、表情を中心に作画が行われる。なぜならアニメーションという表現は、キャラクターの性質によって大きく規定されているし、キャラクターを立たせたほうが制作の都合を考えても、効率がよいだろう。だが京アニは、キャラクターの会話がメインであるにも関わらず、その様子をアングルごとに背景画を用意し、まるで映画を撮っているかのようなフレームでキャラクターたちを格納しようとする。これによって平面的な印象しか与えようがなかったテレビアニメの歴史に、自然主義的リアリズムを挟み込むことに成功したといえるだろう。他にもカメラフレームの振り方やエフェクトにおいても映画的手法を多用していることを示唆しておきたい。





3.感情移入の入り口が多い(ハイパーリアルとスーパーフラットの二重化)アニメーションにおいてその作品が、感情移入できるかどうかは最も重要なポイントである。これまでのアニメ史はキャラクターの描き方によって、視聴者(プレイヤー)に感情移入させようと試みていたとすれば、京アニの作品では、キャラクターたちの舞台となるシチュエーションの置き方でも感情移入させる、という二重戦術が採られていることが多い。
たとえば京アニ作品の背景画は、実際にどこかに存在するロケーションを元にして作画が行われていることがほとんどだ。『らき☆すた』の舞台になった埼玉県の鷲宮神社では、アニメ放映された翌年の初詣にオタクたちが殺到し、マイナーな鷲宮神社が一気に県下で2位の集客数を稼いだことがマスコミを賑わせた。オタクたちはそのアニメと現実が融合したいという夢を見たいがために「聖地巡礼」と呼ばれるイベントに駆動されているわけだが、これは背景画にリアリティを感じ取ったプレイヤーたちの帰結だといえる。
しかしながら逆にキャラクターの描写は単線化されており(誰でもマネしやすいシンプルな線画である)、アニメの定番とも言えるキャラクターデザインがなされている。通俗的な言い方をすれば「萌え要素」を刺した描き方になっているというわけだ。そうすることでオタクたちは、キャラクターの意識にすんなりと感情移入しやすくなっている。
つまりキャラクターの層においては描写をあえて簡略にすることで感情移入させ、逆に背景画の描写は徹底して細かく描くことで、誰にでも既視感と郷愁を誘いながら感情移入させている。この二重性が作品全体に、立体感と奥行きとボリュームを大きく与えているのだ。


とはいえこの3点目に関しては、最も重要な指摘でありながら、まだまだ分析ができてない。しかも2と3はやや矛盾した指摘ともなっている(リアリティが作品の秘訣だと言いながら シミュラークルの作り方がうまいと言っているのだから一見して矛盾している)。おそらく文芸評論家の福嶋亮大が提唱する「偽史的想像力」とよく似たことを指摘したいのだが、筆者の分析力不足により言葉足らずが否めない。引き続き福嶋の論考を参照されたい。