マクルーハン再考 4

高校二年生の時にかいた小論文で、我ながら気になってやまないフレーズがある。
「パウル・クレーの線は、メディアである」

NHKプロフェッショナル 仕事の流儀』で、漫画家の浦沢直樹が愛好するロダンクロッキーを皮切りに、絵の輪郭線について語っている。

漫画を描くようになる人たちには、ある作家がスッと引いた線に対してビリッと電流が走るように反応したことがきっかけになる人が、結構多いのではないでしょうか。(中略)引き始めから引き終わりまで、目的意識がはっきりしていてスーッと引けている線というのは、すごくいいなと思うんですよ。反対に、迷い線があったりすると、「ああ、ここで迷ったんだな」というのがわかりますよね。

私が注目しているのは、線の造形性ではなく、優れた線が引き起こす人々への感染力である。浦沢が電流と呼ぶものだ。この感染力は今日においてもはやメディアと呼ぶに相応しいと思う。優れた線は人々の想像力をかきたて、間主観性を醸成する。いまメディアの問題を考えるために必要な視点として、間主観性の可視化がある。ちなみにかつて「間主観性と合意形成」でコミュニケーションの問題を考えたことがあるので参考に。

「○○○の線ってなんか○○○を思い出すよね」と誰かが感じてつぶやく。他の誰かが似たような(でも内実は違っている)ことを感じれば「同意です」「ぼくは○○○を想起します」とつぶやく。いつか影響力のある人がつぶやきをみて転送する。誤配は問題ではない。転送されることがメディアにとっては重要なのだ。Twitterはこの転送をボリュームに仕立てることでメディアと化した。

すでにTwitter間主観性のエンパワーメントとして機能してはいるが、現状は言葉の間主観性を可視化する道具となっている。線や色彩といったモノの想像力を可視化する道具とは言い難い。したがってこれからのメディア事業者はイマジナルなモノから連想される人々のイメージを浮かびあがらせるアーキテクチャの開発をすべきだ。おそらくアーキテクチャが現代のメディアとして尊ばれるのは、このような背景がある。

既存のメディア事業者の人と話していると、メディア意識があまりに強固に持ちすぎていて辟易とする。いかにしてメディア=ビークル=器を開発するかに躍起だ。私はメディアをメディウムと同義にとらえているため、美術家とメディア屋にあまり差を感じていない。コンテンツとメディア、アウトプットとビークルは別物ではなく、相互に依存するものだ。まずはお互いの意識を融解する作業から始めたい。どんなアクションをしていくか明快な答えはないが、私のなかに内在する思いを実践して、ひとりひとりに問いかけている今日この頃だ。


蛇足。そういえば母親は、私が小学生のころにアンリ・マティスの画集を見せてくれて「一切の無駄がないフォルム。超しびれる」と評していた。浦沢の電流と同じではないか。この着眼が造形のメディア性を考えるうえで出発点になっている気がする。