プロセスにこそ企画は宿る

広告はアイデアとデザインの時代から、ストーリーとテクノロジーやクラフトワークの時代へと変わったと主張する人がいる。この主張に異論はない。エビデンスを持った人こそ強者になるべきだと思う。賛成である。ただここでひとつ抜け落ちている観点がある。その広告というアウトプットができる前、いわばインプットの次元で考えるべきことはないのだろうか。

ぼくらはなにかモノに触れるとき、アウトプット=結果にばかり目をむけている。できあがったものをみて、おもしろいつまらないと話をしている。だがインプット=因果にもおなじように、できる前のプロセスをみて、おもしろいつまらないと話をしてもよいのではないか。というか実際に現場ではそういう話はすでにおこなわれており、現場のひとたちはそのおもしろさを享受している。知らないのは受け手である大衆だけだ。以下これは余談だが、そういう因果のおもしろさを楽しむための場が関係者限定のセミナーやシンポジウムだったりするのだが、最近は守秘義務だ競合意識だとかで、アウトプットとかわらないコマーシャルであたり障りのない話ばかり聞かされる。もっとぶっちゃけた話をしてほしいと切に願う。


さて、なぜこんな話をしてみたくなったのだろう。藤原伊織が書いた小説『シリウスの道』のことをよく思い出すからだった。『シリウスの道』はある広告代理店がコンペに参加したことを舞台にしたハードボイルド小説。読むと広告屋が世間のしらぬところでどんな仕事をしているのかよくわかる内容にもなっている。現場で働いている人でなければかけない内容だろう。芥川賞作家であると同時に、現役の電通社員(たぶん営業)だった藤原だからこそかける小説である。

そして藤原は芥川賞をとった後もなお、ずいぶん長い間、電通で働いていた。それは電通で働くことが小説の肥やしになったから、もっといえば働くことそのものが小説を超えるアウトプットとなったからだと思う(と、巻末の解説でこれまた博報堂で働いていたなんとかって小説家が書いてたけど忘れた)。

つまりそれはプロセスがアウトプット化しているということであり、そしてそのプロセスにはいろんな人たちが関わってアイデアクラフトワークだ様々なものが結集されている。そして世の中には出てこない政治的な活動というのも含まれている。つまり営業マンの作業だ。この活動にはとても緻密で大胆なアイデアが積み重なってできている。広告の単純なアウトプットに比べると、ぼくはインプット=因果=プロセスのほうがよほどおもしろい。


いずれプロセスにこそ企画が宿る時代はやってくるだろう。アウトプットの華麗さよりも、インプットの泥臭さにスポットがあたる時代になるのは、肯定的にとらえればだれでもがんばりさえすればスターになれるという話であり、否定的にとらえれば視聴者の欲望が天井をついてしまって、もっと刺激を求めるという話でもある。結局はプロセスも食って散らかされてポイになるのかもしれない。

でもプロセスにこそ人間の叡智が結晶されている。その叡智はどれだけ陳腐でも、パターン化されていても、ぼくたちはそのリアリティに感心をよせてしまう。リアルな現場にこそアイデアを込める世の中になってほしいし、そこを見る人たちも評価してほしいと思う。とあるテレビCMが話題になってワイドショーをにぎわしているが、ぼくはその制作背景を知っている。ぼくの感想は、CMのアウトプットよりも裏側でおこなわれていることのほうがよほどアイデアが込められていると思った。

マーケターやクリエイターはおなじ企画という水準でおなじテーブルに並べたとき、アウトプットのそれよりも、プロセスのほうが優れていることをちょっとは自覚してほしいかな。それを政治的だとかピュアじゃないとかいってしりぞけてる場合じゃないのではないか。なぜなら受け手がそれを耳にしたとき、彼らもまたプロセスのほうがおもしろいというのかも。プロセスがおもしろいからこそ、ぼくもまたこの形式的空虚な世界をガマンしてやっていけてるし。

シリウスの道〈上〉 (文春文庫)

シリウスの道〈上〉 (文春文庫)