論考:第三の広告 〜 エゴフーガリストの生み出す力と育てる力 〜

2010年に『.review』という批評誌で発表した論考をこちらでも公開します。ウェブサイトでも公開されてましたが閉鎖されてたので。この論考で考えてたことやいきさつについてはこのエントリでかいたのでご参考までに。

第三の広告 〜 エゴフーガリストの生み出す力と育てる力 〜

本論の目的は、日本の広告表現に蔓延る二項対立とはなにか、業界に従事する広告人たちが歩むべき第三の道とはなにかを指し示すことにある。広告の実務家が抱えている二項対立とは、第一に利益志向な企業の視点、第二に顧客志向な生活者の視点である。彼らはこのふたつの視点のあいだで悩まされながら広告のあるべき姿とはなにか追求し続けている。後述するが広告手法の歴史は、手練手管であらゆる論理が提唱されてきたが、どれも単純な二項対立に陥っている。これが筆者の問題意識だ。その解答として、ふたつの視点を止揚した広告のあり方を筆者は「第三の広告」と名付けたい。実務家たちが二項対立から抜け出すための、新しい広告表現の視点を授けることが本論の基本線である。
ただし留保しておかねばならないのは、本論は企業にてマーケティングや宣伝活動に携わる人々へ向けた文脈を多く含んでおり、事情に通じていない読者に対して解説すべき前提を大幅に省いてしまっている。そのため結論に至るまでの道のりは、広告の話に終始しているだけにみえるかもしれない。だが筆者の本当の狙いは、コンテンツとメディアが入り混じった新しいコミュニケーション世界の彼岸を照射することにこそある。ミネルヴァの梟を黄昏へ飛び立たせる前に、広告表現における考察を重ねながら少しずつ第三の広告とはなにか明らかにしてみよう。


第一章:第三の道
糸井重里が理想とした広告
一九九二年の『広告批評』で行われたコピーライターの糸井重里と思想家の吉本隆明による対談のなかで、糸井が発したアイデアの素描には、広告の彼岸がぼんやりと描かれていた。
要約すると糸井は、これからの広告はCMの最後に字幕で企業名を入れておくという方法ではないやり方で、企業名を視聴者に認識させなければならない。その前提のうえで、さらにその商品の素晴らしさと表現の面白さを演出し、なおかつ文化財としても優れた作品にならなければならない。そのような広告を作ることがこれからの広告人の職責になるのではないか、と極めて難解な課題を設定している。 *1
企業が望むメッセージ。生活者が欲しがるエンターテイメント。そして文化に貢献するメセナ活動。これらすべてをひとつのパッケージに収斂させるあまりに理想主義的な広告。一九九二年当時では、はたしてこんなアクロバティックな広告表現は可能なのか、読者や実務家は思い悩んだであろうが、あれから二十年近くも時を経た二〇一〇年の現在では、夢想に過ぎないと切り捨てるにはもったいないアイデアだと筆者は考えている。
企業という送り手と、生活者という受け手は、どちらも広告活動で最も重要な主体であるが、そのどちらにも満足がいく広告とはどのような姿をしているのだろうか。本論はかつて糸井が理想とした広告の未来についての答えを明らかにすることで、これからの広告はどうあるべきか照射したい。さらにその過程のなかで、広告の送り手であるマーケッターやクリエイターに代表されるこれからの広告人たちへむけて、二項対立に硬直化した視点を切りかえる発想法を提案していきたいと思う。


企業と生活者の二項対立
企業と生活者という関係は、広告界で不偏不党の原理としながら、いつも議論の種とされてきた。長い歴史のなかで広告の形がいかに変容してきたとしても、広告を供給する広告主と、受容する生活者という需給関係は変わらない。確かにインターネットの登場によってその関係性が双方向になったり、生活者が情報を生産する能動性を獲得して主従が逆転する現象は起こったかもしれない。広告のビジネスがダイナミックに変質したことは事実ながら、送り手と受け手のどちらかがコミュニケーションの主体になるという意味において、基本的な二項対立の枠組みは変わっていない。この現状に対して本論は批評性を見出したいと思う。
視点の二項対立とはなにか。ひとつは企業の視点。ふたつは生活者の視点だ。企業視点ではマネジメント論や管理システム論が毎年のように更新され続け、生活者視点からは分衆や個衆論・階層論・智民論・鐘衆論というように、このふたつはそれぞれ様々な下位概念へと分化てきたが、突きつめれば利益志向なのか、あるいは顧客志向なのかという二分法に還元できるのではないか。
博報堂生活総合研究所の定点調査『生活新聞』にて、発刊四〇〇号を記念した「生活者創造へ」と題したレポートには、広告プランナーが抱えるジレンマが顕著に示されている。要約すると、生活者は消費者としてだけでなく生産者という側面を持ち始めており、マーケティングの論理からは矛盾や逸脱するような行動が目立つようになってきたにも関わらず、広告業界はいまだに生活者の視点でプランニングすることをあまりに前提とし過ぎているというのだ。 *2
もうひとつ例を挙げておこう。マーケティングが日本に輸入されたのは一九五〇年代半ばであるとの通説があるが、その立役者である日本生産性本部マーケティング専門視察団が一九五六年に渡米した報告書にはこう記されている。マーケティングとは「セリングが企業中心の考え方で売ればよいことに重点を置いているとすれば、マーケッティング消費者を対象とし、中心として、それにどう売るかを考える行き方」だと示されているように、当時から広告人の考え方の根本は更新されていないことがわかるだろう。 *3
シーズ発想からニーズ発想へ。広告の技術は歴史を経ながら発展を繰り返してきたが、コミュニケーションを考える時に立ち返るのは、企業の主張を重んじるか、生活者の本音を代弁するか、そのどちらかにおもねることの決断を常に迫られてきた。企業側に立てば商業主義的な表現となりすぎてターゲットの関心を呼ばなくなり、生活者側に立ちすぎれば売るために不可欠なメッセージは削ぎ落とされ、広告の本質を逸脱しかねない。


自由意志と共同体を架橋する「第三の道
企業の視点と生活者の視点。このふたつのあいだには大きな川が流れている。したがって本論の目的は、この川に第三の道という大きな橋を架けることで、広告人が歩むべき新たな第三の視点を切り拓くことにある。
第三の道とは、イギリスの社会学者であるアンソニー・ギデンズによる政治の方針である。ギテンズは閉塞した社会が目指すべき道標として、個の自由を尊ぶ思想と、公の共同体を重んじる思想を融合させた考えとして「第三の道」という着想に至っている。*4 この思想をごく簡単に言い換えるならば、たとえば強いものも弱いものも平等に富を分配するのではなく、目的意識を持ってより自由に自発的に動くことができる者にこそ積極的に支援することで、結果としてよりよい社会作りが行われ、人々の自立と協調が両立できるというものだ。ギデンズはブレア政権を下敷きに、この理論の正しさを証明してきた。
第三の道とは、狭い政治の主義思想ではなく、広告に携わる人々も見習うべき指針だと筆者は考えている。広告人は、第三の道を見つけなければならない時代に直面している。というのも企業やメディア業界は、新しい広告の手法はたくさん開発してきたにもかかわらず、二一世紀を迎えてもなお、その視点は硬直化しているからだ。自由でありながら社会を尊重すること。そのあいだに道を拓いた先には、はたしてどんな世界が待っているのだろうか。


第二章:エゴフーガルなモノ
利益志向・顧客志向・公益志向
さて、ところで企業の視点と生活者の視点のあいだを止揚するものとして、商品があることは誰でもすでによく知っているはずだ。そして多くの広告表現もまた、商品を起点にして作られてきた。だがその内実を鑑みると商品とは企業が製造したモノであり、同時に生活者が消費するモノであるがために、どちらかのエゴに回収されてしまいがちだった。仮にメーカーがエコを意識した商品を開発しても市場の流行に便乗したものだと揶揄されたり、グリーンコンシューマーという生活像は消費の楽しみ方のバリエーションに過ぎないとみなす意見は少なからずあるだろう。まるで商品はつねに誰かのエゴが蔓延ることを宿命として背負っているかのように。
そこで本論では商品が持つ、企業と生活者のあいだにたゆたう中立性に立脚しながらも、利益志向でも顧客志向でもない、公益志向とでも呼ぶべき価値を商品に与えたいと考えている。その手がかりとして、二〇〇一年に開催された芸術の国際展であるイスタンブールビエンナーレで統一テーマとなった「エゴフーガル」は大きな参照項になるはずだ。
エゴフーガルとは、エゴという個我や欲望から、「遠ざかる」という意味のラテン語「FUGAL」を結びつけた造語である。*5  近代人はこれまで自我を重んじ、個人の自由を追求してきたが、二一世紀を迎えると個人主義だけでは解決できない社会問題が勃発するようになってきた。エゴフーガルとは、そういった個人や組織が持つエゴイックな欲望から解き放たれることで、新しい主体を目指すための標榜であると思い浮かべてみてほしい。
企業と生活者の意思がそれぞれ内在し、時と場合によってどちらかの思いに引き裂かれてしまう商品。その二者の個我から遠く離れることで、商品は独立して社会的な意識をもった存在に変容することはできないか。商品を「エゴフーガルなモノ」として解釈しなおすことで、そこから生まれる広告がこれまでの広告のスタイルを刷新してくれるのではないか、仮設を立ててみたいと思う。


エゴフーガルとしてのデイリーミルク
たとえば二〇〇八年度のカンヌ国際広告祭において、フィルム部門のグランプリを受賞したキャドバリーチョコレート「デイリーミルク」はまさしくエゴフーガルの視点に立った広告の構造が採られていた。このCMはチョコレートの広告であるにも関わらず、九〇秒間のほとんどをゴリラの瞑想と、そのゴリラがドラムをBGMに合わせて豪快に叩くシーンで占められており、CMというよりまるでミュージックビデオのような奇抜な演出と、その破天荒さが賛否両論を呼んだ。

しかし一般の視聴者はもちろん、業界関係者でさえこの表現方法には呆然とさせられただろう。なぜなら言うまでもなく、デイリーミルクの商品性とゴリラのドラマーには何の因果関係もないように見えるからだ。いったいこのCMは本当に広告として機能しているのだろうか。そう疑問に感じた人は少なくないだろう。
そこで本論で注目してほしいのは、CMの冒頭に表示される「a GLASS and a HALF FULL PRODUCTIONS」という企業名のような表記と、CMの終わりにようやく登場する商品カットとその下にある「A glass and a half full of joy」という奇妙なタグラインだ。通常であれば、冒頭にはキャドバリーの社名、そして終わりに商品のキャッチコピーを置いて構成するのが通常の制作の基本形である。対してこのゴリラを起用したCMではキャドバリー社の代わりに存在しない擬似的な組織「a GLASS and a HALF FULL PRODUCTIONS」が放映している広告であるかのような錯覚を与えている。しかも商品カットが挿入されるとはいえ、そこにはデイリーミルクの本来のタグラインではない別の言葉が使用されているのだ。
「a GLASS and a HALF FULL PRODUCTIONS」と「A glass and a half full of joy」の元ネタになっているのは、イギリス人なら誰しもが知っているデイリーミルクの有名なタグライン「A glass and a half full of milk(コップ一杯半の生乳)」だ。デイリーミルクはイギリスのチョコレート市場で圧倒的な売上比を誇る国民的なお菓子である。だからこそこのタグラインはイギリス人ならば誰もが知り、愛されているため、本来、キャドバリーという企業が自社のチョコレート商品に与えたエゴイックな意思(このチョコレートはコップ一杯半の生乳を使っているほど贅沢なお菓子なんですよという主張)から一定の距離を取ることができている。つまりデイリーミルクという商品自身の声としてタグラインが認識されつつあるのだ。その空気感は日本でいえば、くいだおれという店の宣伝ツールであったくいだおれ人形に「くいだおれ太郎」という名がつけられ、本来の目的とはかけ離れたところで人々に愛されていった。そんな話と通ずるものがあるだろう。
いずれにせよそこでキャドバリーは、キャドバリー社の主張ではない、デイリーミルクの独立したステートメントをより際立たせるために擬似的に中間体を仮構したのである。本線に接ぎ木しながら言い換えると、キャドバリーとイギリス人のあいだで浮遊するデイリーミルクの意思を「PRODUCTIONS(エンターテイメントを制作する会社)」というエゴフーガルに託すことで、あらゆる個我を捨て去ろうと試みたのだ。


気前が良いから二次創作が生まれる
実際にこの企画を担当したファロンの戦略ディレクターであるローレンス・グリーンによると、デイリーミルクは「チョコひとつにコップ一杯半の生乳」というメッセージが示しているように、長い間、お客さんに気前の良さを語ってきた商品だったという。しかしいまの時代の人々は、デイリーミルクの気前の良さを語るだけじゃなく、行動で示してほしいと言うだろうと考え、あえてチョコレートとは何の関係もない、人々を楽しませるためのキャラクターとしてゴリラの表現に行き着いた、と解説している。*6  だからこそこのCMは商品が持つアイデンティティをより際立たせながら、企業でもない生活者でもない、その中間体であるエゴフーガルの表明をした広告になりえたのである。
エゴフーガルとしてのモノ。この視点に立ってつくられた広告は、最終的に送り手が伝えたかったことをきちんとターゲットに伝えつつ、受け手もまたその広告を楽しんで受容することができる。デイリーミルクのCMは「コップ一杯半の生乳」に現れているような、商品が最も伝えるべき本質を深耕しながらも「milk」という企業のエゴを取り払い「Joy」という社会性のある言霊に置き換えた。だからこそ視聴者はこのCMを素材にして、二次創作に励んだのである。
たとえば動画共有サービスのYouTubeでは、このゴリラをぬいぐるみに置き換えたパロディ動画や、ゴリラが撮影中に暴れだすサイドストーリーを公開する人まで現れた。そのいずれもが数十万から数百万の視聴数を誇っており、通常のプロモーションビデオよりも遥かに高い視聴数を稼ぎ出していることにも注意を促しておこう。

その拡がりの大きさも評価されてのグランプリ受賞であったが、このような話題性の高め方は、バイラルマーケティングの名の下に企業が意図的に扇動するだけでは起こりえない。送り手でも受け手でもない、そのあいだにエゴフーガルという意識、つまり第三の視点に立つ意識を持ったからこそ、あらゆるプレイヤーたちに「Joy」を感じさせることができたのだ。


第三章:生み出す力と育てる力
生活者をエンパワーメントする広告へ
私たちは第二章にてエゴフーガルという概念を用いることで、キャドバリーの広告がどのようにしてセリングとマーケティングを両立することができたのか確認してきた。しかし本論はこの事例をみて、クチコミを誘発するための新しい手法を考案したいのではない。どうすれば広告人はすべての人を幸せにする広告をつくることができるか、その道標を照射することに目的があったことを忘れてはならない。
日本においてもCMという空爆を落とすことでネットや店頭で闘う地上戦に持ち込み、クチコミを大量発生させる戦術が近年賑わいを呈しているが、それはコミュニケーション環境が地殻変動していく昨今において表層的な動きのひとつに過ぎない。話題になることとは、生活者が無意識のうちに誰かに話して共有したい、という欲求を与えられてから引き起こす帰結なのである。それより私たちは表層ではなくその深層、つまり広告のクリエイティブが生活者たちの価値観を変え、彼らの創造性を喚起してしまう可能性にこそ関心を向けなければならない。


創り出す力から生み出す力へ
そこで筆者はデイリーミルクの事例を通して分析したように、エゴフーガルのモノから立脚した広告によって、生活者の購買行動を促すだけでなく、創造的な活動を引き起こす契機を与えてくれる広告のあり方を法学者ジョナサン・ジットレインの言葉を借りて生み出す力(Generativity)と呼んでおこう。生み出す力とは、送り手の都合のよいメッセージを送るのではなく、受け手にとって有益なプレゼントを贈ることに主眼を置いた考え方だ。その発想にエゴが介在することは許されない。*7
長年、広告制作者のコアコンピタンスは創り出す力(Creativity)にあるとクリエイターたちは信じてきた。だから彼らも強くユニークな表現さえ創り出せば、その思いはちゃんとターゲットに届き、クチコミも自然に広がっていくのだと考えてきた。強いクリエイティブが話題になるのは今も昔も変わらないが、ここ数年で、企業が伝えたかったことがなかなか生活者に受け入れられなくなっている危機感は広告人ならみな実感しているだろう。枚挙に暇がないように数多の企業が取り組みはじめたCGМやソーシャルメディアを用いた戦略はことごとく失敗しているのに象徴的だ。その現象は作品の創造力が足りなかったのではなく、作品を受容する環境がエゴを感じるコンテンツを嫌ったのが原因であることはこれまでも分析した通りだ。
いま、広告のあり方は政権交代を余儀なくされている。創り出す力の限界を認め、生み出す力の可能性に鉱脈を見出すことこそが、時代が求めている必然ではないだろうか。ジットレインは生み出す力とは「種々雑多な幅広い人々の貢献を選別せずに受け入れることによって思いもよらない変化を実現する能力」だと語っているように、  企業は生活者の良心を信じ、寛容の精神(デイリーミルクでいえば気前の良さ)を持たなければならないのだ。


触媒としてのメディア
広告が生み出す力を持つためには、送り手だけでなく、受け手の協力も必要不可欠となる。その具体的なヒントになるのは、二〇〇九年七月から森美術館が行っている「クリエイティブ・コモンズ」を採用した展覧会のあり方だ。森美術館では中国の現代美術家であるアイ・ウェイウェイの展覧会で、観客による作品の写真撮影を許可する試みを始めている。写真は非営利目的であり、クリエイティブ・コモンズと呼ばれるライセンスを明記すれば、ウェブでのアップロードや自由な引用が許される。ライセンスの定義次第ではその写真を加工して、二次創作として活用することも可能だ。
だがいくら送り手が著作権というエゴを放棄したとしても、受け手が悪意のある引用や加工をしてしまっては、このシステムは早々に瓦解してしまう。生み出す力とは、送り手や受け手、あるいは作品そのものまで、あらゆる主体がエゴフーガルの意識を持たなければ成立しえない力なのだ。
広告を芸術作品と同じく、創作物として捉えてみるとこの森美術館の取り組みに学ぶことは多いはずである。単純にいえば駅のポスターにクリエイティブ・コモンズの表記を貼っておくことで、人々が写真を撮り、ブログに掲載することでパブリシティ効果を狙うこともできるであろう。iPhoneなどの高性能のスマートフォンがさらに発達すれば、そのポスターのなかにICチップを内蔵させ、端末でチップを読み込むことで、より複雑な情報を伝達することも可能になっていくはずだ。そして贈り手がギフトとしての情報を贈ることで、情報は受け手のネットワークのなかで様々な形となって拡散し増殖していく。このような媒体(media)のあり方は、媒介するだけでなく、周りの人々の能動性を促進するという意味において、もはや触媒(catlyst)であるといってもよいだろう。
しかしながらそのような技術の進歩史観は、一方で楽観的すぎるとただちに留保しておかねばならない。重要なのは手法が進化することでなく、その手法を存分に活かすために送り手も受け手もが襟を正さねばすべては無駄となる。みんなの純然たる想いを商品に宿すことで、エゴフーガルなモノへと生まれ変わる。そしてエゴフーガルなモノから作られる広告は、自然と生み出す力を備えており、その広告に触れた生活者を楽しませることができるのだ。楽しませた結果に付いてくるクチコミや話題性は副次的なものに過ぎない。


ハビトゥスを育てる力
以上でエゴフーガルと生み出す力の関係についての議論はひとまず終着したこととするが、このエゴフーガルなモノを起点にした広告表現には、もうひとつの未来が隠されていることも示唆しておきたい。
どういうことか。人間が創造をしたくなる時には、その内面になにかを創りたいという感情の発露があるわけだが、さらにその奥底には文化的な慣習とでも言うべきマグマが培われていることに広告の送り手は気付いていない。文化的な慣習とは、常識的には親や学校が教えて培われていくものだと考えられているが、しかしながら人々はテレビを見たり、街を歩いたり、友達としゃべったり、ふと出会った言葉に感動したり、様々なる意匠に触れながら性格や考え方は形成されていくものだ。つまり行動の裏側に潜んでいる文化的な慣習を育むことができる広告のあり方を、先ほど提示した生み出す力と対比させて「育てる力(Constructivity)」と命名したいと思う。生み出す力が外向きのベクトルだとすれば、育てる力は内向きのベクトルだといえよう。
ちなみに文化的な慣習のことを社会学ピエール・ブルデューハビトゥスと呼んだ。ハビトゥスとは、英語のhabit(慣習)の語源でもあるhabere(持つ)から派生されて考案されたブルデュー独自の概念である。ブルデューはある著書で「ハビトゥスは、最初に力を加えてやらないと動かないバネのようなものだ」と語っているように、*8 それは心の奥底で眠っているため、普段は表面化されない。しかしモノを買う時の行動に、ハビトゥスの質は大きく関与する。


モノの真理を啓発する
たとえばビールAを買おうとする二人の男性がいたとする。一人目のハビトゥスは「ビールは麦で出来ているから健康に良い」と考えており、二人目は「ビールは高プリン体だから体に悪い」と教え込まれていたとする。だから広告のマーケッターは、一人目にはビールAの麦芽が増量したことをアピールし、二人目にはプリン体を大幅にカットしたことを告知すればよいと考えてきた。その設計こそがマーケティングの基本だと信じて疑わなかった。
だが本論で模索しているハビトゥスを育てる広告の力とは、AとBの個人的な選り好みを超えて「健康に良いとか悪いとかの次元じゃなく人間はビールを飲みたくなる瞬間がやってくる。だからその時間を大切にしてあげよう。人生は使い分けが肝心なんだよ」と、商品を通じてわかりえる真理を啓発することに他ならないのだ。


価値観の羅針盤としての広告
育てる力という言葉の耳障りは、まるで学校教育のことを指しているように聞こえるかもしれない。だがここで筆者が想定しているのはもちろん広告の可能性にまつわる議論だ。広告は人間のハビトゥスを育てる力を持つことができる。広告を通せば、どんな時でも場所でも言葉でも、どんな人種とだって通じ合うことができる。そして広告人が担っていく広告の領域はメディアの介在だけに留まらず、人と人が交わる空間すべてがコミュニケーションの接点なのだ。そう捉えなおすことによって、広告人の責任はより重くなったのかもしれない。ゆえに広告は生活者の慣習やライフスタイルさえも変えてしまう文化様式であることを、彼らは強く自覚しなければならない。
先述したようにデイリーミルクのCMを見て創造力を刺激されたイギリス人たちは、そのCMをお手本にして自分の作品を作っている。その有り様は、黒板に書かれた方程式を使って問題を解こうとする生徒たちの姿と重ね合わせてみることができないだろうか。送り手が望む望まないに関わらず、広告は人の価値観をナビゲートする羅針盤となるのだ。


エゴフーガリストがつくる贈与価値
広告は人類の教科書である。この宣言はいささか大げさに聞こえるかもしれないが、マーケッターやクリエイターはそれほどの覚悟と責任を負って仕事に取り組まねばならない。だからこそ筆者は、企業の主張でも生活者の声でもない、その中間点である商品をエゴフーガルとして独立させ、そこを広告の出発点とすることで、そのメッセージは人々に広く(創造的活動を生み出させる)、そして深く(文化的慣習を育てていく)、受容されることを論証してきた。
ここまでの分析を通してみれば、冒頭で提起した糸井のつぶやきはあながち理想論ではないことに気付かされるだろう。さらに補助線を引いておくと、対談相手である吉本隆明は糸井の発言を受けて、これからの社会は贈与価値が必要だと語っている。モノの価値は交換できるからこそ価値があると思われているが、企業精神が交換価値だけで縛られていては臨界点を迎えるだろうと警告を発しているのだ。
広告人にいま求められているのは、商品がそうしたように、企業と生活者それぞれのエゴを牽制しながら、むしろ自分の利を誰かに贈与することで、結果として自分に還ってくるのだ、という原理を、広告の形を借りながら実践していくことではないだろうか。
広告人もまた商品と同じように、企業や生活者のあいだに立つ中間地点であるのならば、個我を忘れ、社会に贈与する想いや心構えを重んじるべきである(それは社会貢献活動をせよという意味ではない)。そう、先達の誰もが「エゴフーガリスト」としての広告人が、社会へと大きく巣立っていく時代を、ずっと心待ちにしているのだから。

*1:糸井重里 吉本隆明「いま何を考えるのか?」『広告批評』マドラ出版、一九九二年七月

*2:博報堂生活総合研究所『生活新聞 No.400』博報堂、二〇〇四年七月

*3:松井剛「消費論ブーム:マーケティングにおける『ポストモダン』」『現代思想青土社、二〇〇一年一一月

*4:アンソニー・ギデンズ第三の道日本経済新聞社、一九九九年一〇月

*5:美術手帖現代アート事典』美術出版社、二〇〇九年三月

*6:THE INDEPENDENT「Advertising: Spot the link between a gorilla and chocolate」

*7:ジョナサン・ジットレイン『インターネットが死ぬ日』早川書房、二〇〇九年六月

*8:ピエール・ブルデュー『リフレクシヴ・ソシオロジーへの招待』藤原書店、二〇〇七年一月