メタフィジカルな生成力の環境

『思想地図 vol.3』におさめられた「アーキテクチャと思考の場所」というシンポジウムの再録を読んだ。このなかで建築家の磯崎新は、メタフィジカル形而上学的)なものを いかにしてフィジカル(物理学的)に落とすかが問題だ、という主旨の発言をしている。例えば北京オリンピックによって建立された通称「鳥の巣」は、アーティストのスケッチとコンピュータによる空論がそのまま現実の産物と化したものに過ぎず、建築家からすると無駄な構造ばかりが肥大したゴミでしかない。現代はそのようなバーチャルの夢想が簡単にリアルな物体に変換することがあり、その時、非合理で巨大なゲテモノが生まれてしまう隘路に直面するという。この両者を無理なく、整合性を保ってつなげることが重要だと訴えている。
この建築的な課題は、表現する者すべてにも、広く共有されるべき意識である。例えば私たちはある平面をデザインする時、コンピュータのおかげで誰でも簡単に印刷物をつくることが可能になった。だがそのせいで、書体のプロポーション(字間や行間のバランス)をかなりの程度で他者に委ねることになった。そのためにトラッキングの数値に頼ってしまい、最終の定着画面に目を向けることが少なくなってしまった。DTP上での整合と、実際の駅で掲出されるポスターの見栄えはずいぶんと違ってしまう。このように卑近なレベルで見ても、メタフィジカルな意識は生活空間にだいぶ浸透しているといえる。DTPも元々はコンピュータ学者の思想的な発露から始まったものなのだ。
磯崎は「現実の建築物はどこかで“切断”しなければ成立されることはない」と言っている。磯崎が提唱したプロセス・プランニング論にしても、無限に生成されるように見える建築の過程も、予算が尽きるとか区画整理に合うとか、なにがしかの理由によって物理的にプロセスは切断され、建築物は完成されざるをえない。だから建築家という仕事は、切断の契機を担うことに本質がある、と磯崎は考えている。この考えもまた、表現者たちすべての通奏低音だと思う。だが一方で、同じアーキテクチャと名指されるインターネット空間では切断されることなく、ある物質が延々と生み出され続けてしまう。建築とウェブはこの点において大きな差異がある。

私たちはある何かを表現する時、ある素材を使って、ある作業を加えて、ある時期に終わりを迎えるように“決断”をしなければならない。決断した時に初めて創造は生まれる。そしてこの決断力にこそ感性の差が見えるはずである。このような表現の力学を創造力と呼ぶならば、いま、インターネット空間で行われているような、無限にある何かが、ある何者かによって増殖され続けていく過程は、生成力と呼ぶべき力学なのだろう。創造力は決断することによって終わりがある。逆に生成力は誰もが参加し、誰もが決断を先延ばしすることで終わりがない。創造力は顕名的(作者の名前がわかる)であり、生成力は匿名的(作者が誰かわからない)である。
このシンポジウムの議論では、インターネット文化が後押しした結果、生成力が台頭する社会のなかで いかにして批評や思想は可能なのか、という問題提起が投げかけられていた。付け加えて私は、表現すること、考えることが、どのような概念に拡張もしくは縮小してしまうのかが気になっている。例えば生成力の環境に、アイデアという価値を置いてみると、それは単なるパーツに過ぎないことが明らかとなる。創造力の環境では最も尊ばれるべきアイデアは、これからはあまり価値のない作業のひとつになるだろう。この見方を諦観と読むか達観と読むかは、それこそ自らの表現者としての方向を決断することに他ならないだろう。
蛇足ながら言っておくと、どちらかと言えば私は創造力の環境こそが尊いのだと思っている。しかしながら私たちの社会は、そうではない、自由でアナーキーで市場操作的な思想になっていくことは覚悟しなければならない。そのうえで創造力を捉え直すべきだ。