マクルーハン再考 3

2008年に休刊になったInterCommunicationの最終65号で、東京芸術大学佐藤雅彦は、ある意味体系を含んだ物理的信号のことを情報だと定義し、その情報を送り手と受け手のあいだで意味を共有させる行為をコミュニケーションだと定義した。そこで佐藤との対談相手であるアーティストのアレクサンダー・ゲルマンは、情報を伝達するための手段をヴィークル(Vehicle)と呼んでいた。佐藤がそれはメディアとは違うのか、という質問をすると、ゲルマンは同じかもしれないが意識は異なるとこたえた。ヴィークルは情報をのせる「乗り物」であり、乗り物にはさしたる意味はないのだという。メディアという言葉には、産業的かつ政治的な意思がすでに内在しているために、ゲルマンは伝達手段のことをメディアと呼ばずに、ヴィークルと呼んでいるというわけだ。
これはマクルーハンの声明を参照するまでもなく、アーティストとしてまったく正しい意識である。マクルーハンが「メディアはメッセージである」と語ったように、メディアはすでにそのものに意味体系を含んでいる。一方でヴィークルとは単なる器でしかなく意味体系を含んではならない。この比較をしてみたときに表現者たちがいま、メディアと呼んでいるものは実はヴィークルのことをそう名指したいんだとわかる。表現者にとって重要なのはメッセージの中身であるはずだ。そして彼らはメッセージがそのまま受け手に直接に伝わることを望んでいる。そのために使う支持体はメディアではなく、ヴィークルという意識で制作をしているはずだ。
支持体という言葉に耳慣れない人のために解説しておこう。支持体とは絵を描く(特に油彩)ときに使う画材のことで、絵の具がキャンバスに馴染みやすいように、キャンバスの下地として塗る媒材のことである。また媒材の種類には、大きいサイズの絵を描くときに、高額な絵の具を少量だけ使いながら引き延ばす目的で使ったりするものもある。これらはまとめて「メディウム」と呼ばれている。そしてメディウムは、国によってはヴィークルとも言い換えられているらしい。


筆者はメディア論者ではないので詳述はできないが、おそらくメディアという概念の語源にはメディウムがあると考えてよいだろう。そもそも元来、メディアには絵具を引き延ばすかのように、メッセージを媒介するという目的があったわけである。だが現在においてはその媒介の役目は、ヴィークルが担っているといったほうがよい。なぜならメディアにはそのメディアを選択した行為そのものに、意味が含まれてしまうからである。
つまり、絵画でたとえると「日本の政治を批判したい」というメッセージを、油絵具というメディアで表現し、インターネットというヴィークルに載せて伝達しているという三層のコミュニケーションが成立していることがわかるだろう。メディアとは油絵具である、という視点にたつと、メディアとはそれ自体に意味を含んでいることに気づかされる。たとえば現在において油絵具というメディアを選択することは、批評家からみると、この表現者はニューペインティングのジャンルで火花をあげたいんだな、と勝手に解釈されたりするわけだ。表現者の意図とは離れたところで、メディアは環境のなかで機能してしまうのである。
したがって現代の送り手は、メッセージとメディアとヴィークルの関係性と役割を理解したうえで、コミュニケーションを組み立てなければならない。もともとメディアとヴィークルは同じものであったはずだが、いまではやや異なる概念になっていることに注意すべきだろう。私たちはメディアのことをヴィークルだと考えたり(インターネットはメディアであり、同時にヴィークルでもある)、またその逆もしかり。とりわけ先述したゲルマンの創作は、この過程のなかでメディアを脱臼し、メッセージとヴィークルを連結させることで新たな表現を生み出しているのが興味深かった。とはいえこのゲルマンの新しさは、昔ながらのアーティストらしい姿勢なのかもしれない。いまのアーティストはメディアのメッセージに振り回されていることが見て取れるのだから。


Inter Communication (インターコミュニケーション) 2008年 07月号 [雑誌]

Inter Communication (インターコミュニケーション) 2008年 07月号 [雑誌]