ベアトリーチェの挑戦状 × 自律と贈与

PS3版『うみねこのなく頃に 〜魔女と推理の輪舞曲〜』が2010年12月16日に発売された。ぼくは公式サイトの制作をお手伝いしており「ベアトリーチェの挑戦状」という特殊なプロモーションを行っている。毎週、魔女がプレイヤーに対して挑戦を投げかけ、プレイヤーはあらゆるヒントを手掛かりに正解を推理している。ゲーム版のうみねこの基本は、魔女と人間が推理合戦をしているのをプレイヤーが眺めながら、魔女が正しいのか人間が正しいのか考察するのが醍醐味である。そんな楽しみ方をウェブサイトでも再現できたらと思って制作してきた。


ベアトリーチェの挑戦状」の内容については、あらゆるブログやニュースサイトで書かれているので解説は省略する。それよりこのブログは広告にまつわることを話すブログなので、このプロモーションを企画するにあたって考えたこと、そしてぼくが考える広告倫理(というと大変に不遜だが)について抽象的な話をさせてほしい。

PS3版のうみねこは、原作の同人ゲームを忠実に再現したサウンドノベルだ。比べて『ひぐらしのなく頃に』ではコンシューマー版は原作とは異なってシナリオを変えたり、あらゆる機能を盛りこんだサービス精神あふれる作品だった。極端にいえばPS3うみねこは原作PCゲームとの違いがあまりない(もちろんグラフィックやサウンド面で豪華なグレードアップがなされているが、基本的なストーリーや設定は原作を準拠している)。広告する商品の特徴のなさ。プロモーションするにあたってここは大きなポイントだった。

原作を買った原作ファンにコンシューマー版をどう提案すればよいか。これは広告プランナーであるぼくの個人的な問題意識と深くつながっている課題だった。広告はなにかの商品から派生して産みだされる制作物だ。言い換えれば商品がなければ広告は産みだされることはない。ゼロから有機物を産みだせない広告。しかし世の中でクリエイターと呼ばれる人種は広告業界になぜこうも多いのだろうか。映画やゲームなどエンタテイメントの世界では、もっともっとすさまじいクリエーションがあるのに、なぜ広告は自分のことをクリエーションだと名乗れるのだろうか。


ぼくにとって広告は、強い者に巻かれようとするコバンザメに思えて仕方がなかった。だからうみねこの原作を買ったひとに8,000円のコンシューマー版を買ってもらうためには、商品の宣伝をするのではなくて、広告そのものが商品価値を持ち“自律”*1しなければならないと考えたのだ。

ベアトリーチェの挑戦状」は毎週、いろんなクイズを出してプレイヤーに楽しんでもらっている。それは見た目には商品の特性である推理ゲームを喧伝しているようにみえるが、ぼくの意識はこのプロモーションのなかで、別の形の推理ゲームを注ぎ足している感覚だった。つまり「うみねこメタフィクションのミステリーゲームですよ。こんな特性があるからぜひプレイしてください」と言いふらすのではなく、「このウェブサイトでユニークなARG(代替現実ゲーム)をやってるので楽しんでください。そして商品はこれよりもっともっとおもしろい擬似ARGを体験できるからよければやってみてください」と言いたかったのだ。

うみねこは一般にメタミステリー小説だといわれているが、ぼくはあるタイプの擬似ARGでもあると見ていた。そこで広告の形をかりて、うみねこのARG的な側面をアップデートしたいと思い、たいへんに手のかかるプロモーションを行っているのだ。


その根底には、広告のあり方は商品世界にユーザーを引きこむのではなくて、商品を下敷きにした別のあるなにかの価値をプレイヤーに贈るべきではないかという考えがある。付帯物としてつきまとうのではなくて、みんなを楽しませるため、世の中を良くするため、なにかのアクションをおこすことをクリエーションと考えるなら、広告のあり方はもっと一般にいわれるクリエーションに近寄ってもいい。広告そのものがエンターテイメントとして成立していてほしい。そんな持論をもっとも表現できたのが「ベアトリーチェの挑戦状」である。このプロモーションはなにも商品のことを告知してはいない。ただおもしろいことをして騒いでいるだけだ。でもだからこそいいのではないか。

もうひとつ考えていたキーワードが“贈与”だ。商品のエゴを振りまくより、だれかに感謝の想いを伝えたい。その気持ちは2010年12月に発売されたあたらしいタイプの言論誌『思想地図β vol.1』の表2と表3広告で最もストレートに表現できたように思う。この広告は一見してなんの広告なのかわからないどころか、広告にさえもみえない。なぜそのような形態をとったのか。それは『うみねこのなく頃に』はあたらしい思想と言論の想像力を生み出した作品であるならば、他にも同じようにあたらしい可能性を探しているひとたちにエールを贈るべきではないかと考えたのだ。
ちなみに『思想地図β』の編集長である東浩紀の読者ならおわかりだろうが、この文面は東浩紀三島由紀夫賞を受賞したときに雑誌『新潮』に寄せたエッセイ「なぜ現実はひとつなのだろう」へのオマージュにもなっている。ぜひ一読してみてほしい。
 
 

*1:最初は“自立”とかいていたが“自律”に訂正した。ぼくはずっと広告は他律的であると考えてきたので、ここは自律と明記したほうが考えを引き継いでるからだ。